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「神に立ち帰る」 使徒言行録14章8~18節 

2022-02-27

 最初の頃の生まれたてのキリストの群れは、エルサレムの12人の使徒たちを中心としたユダヤ人だけの群れでした。 迫害されエルサレムを追放されたユダヤ人キリスト者たちによって、次第に異邦人の地へと広がっていきます。 その中心となった異邦人の地の教会がアンティオキア教会でした。 バルナバは、この教会の主任牧師といった存在でした。 そのバルナバがアンティオキア教会に連れてきた副牧師のような存在がパウロでした。 この教会に、ある日、「わたしが前もって決めておいた仕事に当たらせるために、バルナバとパウロをわたしのために選び出しなさい。」という聖霊の語る声が響いたと言います。 これから始まる異邦の地への宣教の働きのために、バルナバとパウロを送り出しなさいという神の声でした。 今朝の聖書箇所は、その世界宣教の途中、異邦の地リストラという町で起こった出来事でした。
 エルサレムであれば、会堂という語る場所もあったでしょう。 聞く耳をもった多くの人々もいたでしょう。 しかし、異邦の地では会堂などなく、町の門や異邦の神の神殿の入り口、人々が集まるところでしか語ることができない。 聞いた人々も、興味本位で聞く人もあれば、違和感を覚え石を投げつける人たちもいる。 大抵は、迫害を受け町から出て行かざるを得ず、次の町へ向かうその繰り返しでした。 ところが、リストラの町で起こったことはその逆で、町の人々からバルナバとパウロが崇められたと言います。 「生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことのなかった男」とふたりは出会います。 もしかしたら、物乞いのために座っていただけ、諦めと絶望のうちに過ごしていただけかもしれません。 しかし、パウロはその男をじっと見つめ、「いやされるのにふさわしい信仰があるのを認めた。」とあります。 そして、「自分の足でまっすぐに立ちなさい。」と大声で叫ぶと、その男は躍り上がって歩き出したと言います。 ただ座っているだけのその男に、パウロは何かを感じたのでしょうか。 ひとりだけ座ってじっと自分が語る神の言葉を全身で受け取っている男の姿を見た。 神から注がれる賜物を受け取ろうとするひとりの男の姿、神の呼びかけに応答しようとするその姿のうえに注がれる神の働きを、パウロは目の当たりに見て取ったのでしょう。 それを、「いやされるにふさわしい信仰」と表現しているのではないでしょうか。 「信仰」も「癒し」も、神の働きによって与えられる賜物です。 周囲の人たちは、この「癒しの奇跡」を見て、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった。」と大騒ぎになったのです。 異教のゼウス神殿の祭司までもが、捧げものをもってふたりのもとにやってきたと言います。 そのような有様であるからこそ、パウロの語るみ言葉をじっと聞いて受け取ろうとした「足が不自由で、座っていただけの男」に、「いやされるにふさわしい信仰」を見ることができたのでしょう。 パウロは、「このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように。」と、異邦人に初めて説教をしたのです。 偶像礼拝に浸り切っているリストラの町の人々こそ、知らず知らずのうちに神ならぬものに縛り付けられている私たちの姿です。 「人間が神ならぬものを創り出し、自分を満足させるものを神と崇めている。 わたしたちの神は創造主なる唯一の神である。 思いのままにしてご覧になっておられる寛容な神である。 実りを注ぎ喜びで満たす恵みの神である。 そのお方のもとに立ち帰りなさい。」とパウロは異教の地の人々に叫んだのです。 私たちの身に起こることはすべて、神の赦し、御心なしに訪れない。 小さな生活のうえに起こされる出来事も、人の過ちによって起こされた出来事も、自然災害も、すべては神の摂理のもとにあり、ご愛とご真実によって働いて、人の過ちや弱さを越えて、私たちの心を喜びで満たしてくださろうとしているのです。 そのお方の摂理のもとに、私たちは立ち帰りましょう。



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