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「最初の主日礼拝」 マルコによる福音書16章1~8節 

2021-11-14

 ユダヤの一日は、日没から始まります。 土曜日の日没から始まった「週の初めの日、日曜日」の早朝の出来事です。 「イエスがガリラヤにおられたとき、世話をしていた」3人の婦人の名前が挙がっています。 イエスの十字架上での死は受け入れ難い出来事、胸が引き裂かれる彼女たちの思いであったでしょう。 「安息日の前日」のうちに十字架から引きずり降ろされ、墓の中に慌ただしく納められたイエスの遺体のある場所をじっと見つめていたのです。 ぞんざいに扱われたイエスの「死」と「埋葬」の一部始終を見つめさせられていた婦人たちは、安息日が終ってからイエスの遺体に油を塗りに行くために、香料を買って準備したのです。 「週の初めの日、日曜日」の早朝に「墓」に、諦めと絶望のままイエスの遺体を整えるためだけに出向いたのです。 夜が明けてあたりが再び見えるようになると、墓石はすでに脇へ転がされていた。 墓の中には、白い衣を着た若者、神の使いが座っていたと言います。 この神の使いが続けざまに、不安のままイエスの「死」と「埋葬」だけを見つめている婦人たちに、「驚くことはない。 あの方は復活なさって、ここにはおられない。 さあ行って、弟子たちとペトロに告げなさい。 あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。 かねて言われた通り、そこでお目にかかれる。」と告げるのです。
 イエスの復活後の最初の「週の初めの日、日曜日」の朝です。 悲しみと絶望に包まれて、ただイエスの遺体の装いを整えるためだけに「墓」に訪れた婦人たちに、「イエスは墓の中で朽ち果てるお方ではない。 よみがえられたのだ。 イエスのからだにとんでもない出来事が神によって引き起こされた。 もうすでにこの墓を立ち、ガリラヤに行かれた。 そこであなたがたはイエスに出会うことができる。 ガリラヤに行きなさい。 このことを弟子たちに伝えなさい。」と告げたのです。 信じることのできない出来事に直面させられた婦人たちは、「震え上がり、正気を失った。 恐ろしくて、だれにも何も言わなかった。」と、神の使いに命じられたことは何もできなかったのです。 そして、マルコによる福音書はここで唐突に終わるのです。 誰一人、イエスがよみがえられたことを目撃していません。 墓の中、夜明け前という「暗闇」の中で、イエスが復活し、もうすでにガリラヤへ行かれたという出来事は起こされていたのです。 弟子たちも、これら婦人たちも、このイエスが復活すると信じていた者はいなかったと言わざるを得ません。 事後に通告されただけなのです。 神の使いに「復活された」と言われたからでも、墓が空であったからでもありません。 「ガリラヤ」とは、弟子たち、婦人たちがイエスと寝食を共にし、親しくみ言葉を聴いて生活をしていたところです。 そこで再び復活されたイエスと出会い、懐かしい生活の中で呼びかけられ、一緒に歩んだ足跡をたどって味わったからでしょう。 この信じることのできない復活の出来事は、父なる神の強い救いの意志によって、神の決断と働きによってもたらされたことです。 イエスの意志でも、弟子たち婦人たちの信仰でもない。 ただ神の忍耐と憐れみだけによって起こされた、神の恵みの出来事です。 弟子たちや婦人たちが信じようが、信じまいが関係なく、むしろ弟子たち婦人たちの絶望と失敗の中に、この恵みの出来事は起こされているのです。 この生々しい復活直後の「日曜日」の証言をもって、うろたえたあの絶望の一日が、喜びの日に変えられた。 新しい出発の日に変えられたと最初のころの教会の群れは「礼拝」をささげる、その拠り所としてここに語っているのではないでしょうか。 神は「帰りなさい」ではなく「行きなさい」と言われるのです。 「暗闇」が去ってから「光」が届くのではありません。 「光」はもうすでに待っていて、「暗闇」の中で輝くのです。



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