秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「滅びないもの」 ルカによる福音書21章29~33節 

2021-10-31

 主イエスは、「世の終わりはすぐには来ない。 惑わされないように気をつけなさい。 おびえてはならない。 わたしがあなたがたに必要な言葉と知恵を与える。」と言われています。 そして、「終末の徴と言われるようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。 あなたがたの解放の時が近い。 そのとき、大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るこのわたしを見ることになる。」と言われました。 今朝の聖書箇所は、この「終わりの日」を覚えながら生きていかなければならない人々に向けて主イエスが語られた渾身の言葉です。 目を覆いたくなる、耳をふさぎたくなる、そのような「終わりの日」の徴を体に刻みつけながら生きていくことになる私たちに、それでも「終わりの日」を忘れてはならないと語っておられるのです。 この21章に記されている「終末の徴」とも言える出来事は、どうしてそのようなことが起こるのか、その意味を語る人はほとんどいません。 今まで生きてきたそれぞれ自分の物語が、ある日突然、想定外の出来事によって破壊されるのです。 だれもその意味が分からないから語れないのです。 福島第一原発事故の直後、「流浪の教会」となった「福島第一聖書バプテスト教会」の牧師がイザヤ書43章19~20節のみ言葉に立ってこう振り返っておられます。 「先行きの見えない不安の中を過ごしておられるなら、また、過去の癒えない傷をひきずって、思い出したくもない過去に縛られておられるなら、そんな不安と後悔の涙であなたの未来を染めてはならない。 一度限りの人生の未来を過去の涙で染めないで、神さまが用意してくださっている未来に向かって生きてください。」と訴えておられます。 このイエスが語った短い「いちじくの木」の譬えとみ言葉は、このような危機の中に、そして必ずやってくる「終わりの日」、滅びるものと滅びないものが見分けられる、そのような時に備えて、イエスご自身が語られた渾身の宣言であったのでしょう。 滅びないものの確かさ、主のみ言葉に聴いて、従って、委ねて生きる者の救いの確かさを語っておられるのです。 いちじくの木でさえ、時が来れば実をつけ熟すではないか。 ましてや、あなたがたに約束された神の言葉が実を結ばないことがあるだろうか。 「すべてのことが起こるまでは、神の時がくるまでは、この時代は決して過ぎ去らない。 しかし、神の時が至ったならば、神のみ心が果たされるように、わたしの言葉を信じ、委ねて、従って生きた者は、新しい命に生き、神の国に生きる者に変えられる。 天地は過ぎ去るが、わたしの言葉は過ぎ去ることはない。 終わりの日は必ず来る。 それはあなたがたの救いの時である。 このような終末の徴に翻弄されるようなところで、あなたたちの想像もつかない神のみ心が果たされる時となる。 だから、心が鈍くならないように注意しなさい。 いつも目を覚まして祈りなさい。」と言われたのです。 私たちは繰り返すことのできない時を送っています。 どう考えても、私たちも、この世も、神の総決算には耐えられない存在でしょう。 神の厳粛な目からみれば、滅ぶべき存在でしょう。 しかし、イエスは、「わたしの言葉は決して過ぎ去ることはない。」 この神の約束に聴いて、信じて、委ねて、従って生きた者は、「わたしとともにいるわたしの子。 わたしが贖う者。」となる。 神の裁きの前に立つ滅ぶべき私たちそしてこの世が、主イエス・キリストのとりなしの祈りの結晶のような十字架により、救い出され、神のもとに憩うことが赦されるようになる。 これが神のみ心です。 この時が、私たちの新しい旅立ちとなるのです。 「終わりの日を覚えて生きる。 終末を生きる。」ということは、天地が過ぎ去ってしまう直中で、神のみ言葉は決して過ぎ去らないという確信に立ち、この天地において忠実に生きるということです。



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