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「主よ、お話しください」 サムエル記上3章1~14節 

2021-09-05

 「そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。」と、わざわざ書かれています。 そのころ、イスラエルの人々は神殿にささげものをし、礼拝を重ね神に仕えていた。 神殿の祭司たちもまた、定められたように神に仕えていた。 神に仕えるという形は整っていたかもしれないが、主のみ言葉に従わずめいめいが正しいと思ったことを行っていた。 祭司エリも忠実な神に仕える者で、神のみ言葉を託された選ばれた預言者でしたが、祭司であった二人の息子たちの有様はひどいものでした。 神殿にささげられた肉を自分たちのものにし、神への供え物を軽んじていた。 神殿に仕える女性たちとしてはならないことをしていた。 神を侮り軽んじていた息子たちの有様を、エリは咎めたけれどもそれを放任してしまっていた。 ついに神の声が祭司エリに届きます。 「あなたはなぜ、わたしが命じたいけにえと献げ物を神殿でないがしろにするのか。 なぜ自分の息子をわたしよりも大事にして、自分たちの私腹を肥やすのか。 わたしを重んじる者をわたしは重んじ、わたしを侮る者をわたしは軽んじる。 わたしの望みのままに事を行う忠実な祭司を立てる。」と言うのです。 聖書はそのような状態を、「主を知ろうとしなかった。 主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。」と表現しています。 少年サムエルも、祭司エリの言われた通りに神殿で忠実に仕えていたのです。 神殿で雑用と思えるようなことでさえ、懸命にサムエルは励んでいたのでしょう。 「サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった。」と言います。 祭司エリから教えられた神は知っていた。 しかし、直に神の声を聞いたこともなければ、出会ったこともなかった。 むしろサムエル少年にとってみれば、祭司エリこそ神のような存在であったのではないでしょうか。 そんな少年サムエルに、わずか一夜にして神は直に呼びかけ、出会い、隠されていた神のみ心を知るまでになさるのです。 
 神は先ず、「サムエルよ」と呼びかけます。 サムエルの知る神とは、人々に礼拝をされる神であり、祭司エリより教えられる遠い存在の神でした。 三度、神に呼びかけられたけれども、自分を呼んだのはエリ先生であると勘違いしたほどでした。 むしろ、エリの存在そのものがサムエルが神を知ること、神の声を直に聞くことを妨げていたのかもしれない。 これだけのことをしていれば、祭司としての形は整えている。 誰からも咎められることはないと思い過ちを繰り返していたエリの息子たちも同じであったのでしょう。 エリはその生涯の最後に、預言者としての務めを果たすのです。 サムエルに対する三度の呼びかけが、神のものであることを悟ります。 「もし呼びかけられたら、『主よ、お話しください。 僕は聞いています。』と祈りなさい」とサムエルに命じます。 エリは、自分の息子たちのことで神の厳しい声が降るのを覚悟していたのでしょう。 四度目に、神の呼びかけがサムエルに届きます。 少年サムエルが「主を知り、直に主と出会う」瞬間でした。 命じられたように「どうぞお話しください。 僕は聞いております」と祈り、その時聞いた内容は、エリ先生が息子たちの過ちを戒め直さなかったこと、預言者としての務めを果たし得なかったこと、預言者の務めの終わりを告げられるという、サムエルにとって驚くべきものでした。 エリにとってもサムエルに伝えられることは、つらく恥ずかしいことでした。 語る苦しみもあり、聞く苦しみもあった師弟関係の間に起こされた突然の出来事でした。 サムエルは隠さず語り終え、神との初めての出会いを経験した瞬間でした。 エリは生涯の最後に、見失っていた神との直の交わりを回復した瞬間でした。 これが「お話しください」という祈りに、神が起こされる出来事でした。 神は「私の話を聞いてください」という祈りよりも、「主よ、お話しください」と祈る私たちを喜んでくださるのです。



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