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「命の選択の決断」 ヨハネによる福音書15章1~5節 申命記30章15~20節 

2021-05-02

 私たちが行う選択には、「判断」と「決断」があります。 私たちはできるだけ正しい「判断」をしようと、理解し納得することができるよう奔走します。 しかし、コロナに象徴されるように何がいったい正しい「判断」なのか分からない、100%信じ切るものさしなどない中で生きていかなければならない時があります。 「判断」できない中で、それでも踏み出すのか留まるのか、その「決断」を迫られる時があります。 「決断」すべき時に、正しい「判断」を求めて逡巡し「決断」できない時があります。 そこには、手っ取り早いマニュアルの答えなどないのです。 「隠されている事柄は、主のもとにある。 しかし、啓示されたことは、我々と我々の子孫のもとにとこしえに託されており、この律法の言葉をすべて行うことである。」(申命記29:28)とあるように、神を信じるという「決断」に委ねて生きることができる恵みが私たちに与えられているのです。
 モーセはその人生の最後に、40年もの間、エジプトから奴隷の身であった大勢のイスラエルの人々を引き連れて、荒れ野の旅を終え、いよいよヨルダン川を渡り、その向こう側にある新しい約束の地に入って行こうとする時に、人々にこう語りかけるのです。 「見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。 あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、命を得る。 あなたは祝福される。 あなたは命を選び、命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。」と語ります。 私たちの前には、「生と死、祝福と呪い」と思われるものが置かれる。 どちらも選び取ることができるし、そのことが赦されている。 しかし、神は「命を選び取るように、命を得るように」と言われる。 私たちは、神が祝福し喜んでくださることを選び取るはずです。 しかし、「死や呪いや災い」は、見たくもない姿をとって現れ出てこない。 人目をひく魅力をもってすり寄ってくる。 もっともらしい正しさをとって近づいてくるのです。 一方、「生や祝福や幸い」もまた、私たちの目には喜ばしい姿をとって見えてこないのです。 私たちの覚つかない「判断」だけでは、神の望んでおられる道を誤って選び取ってしまうのです。 よく考えてみてください。 神は私たちの前に置くべきものを、もうすでに選んで置いてくださっているのです。 私たちが選択する前に、神が責任をもって、神の強い意志と願いによって神の選択が施されているのです。 置かれているものを、私たちがどう受け取っていくのかが私たちの選択です。 うまくいっている時には神に選ばれた民として誇り、いざうまくいかなくなった時にはこの世の力に頼ってしまうイスラエルの人々と同じように、私たちは愚かさをもっています。 それでも神はこのような私たちを憐れんで、私たちにふさわしいものを置いて、それに対する応答、信仰の「決断」を待っておられるのです。 様々な私たちの小さな「決断」の積み重ねが、神によって引き起こされているのです。 私たちの人生は、神が用意してくださっている道のりに、私たちが何らかの応えをもって選びとっている厳粛な道のりです。 「神の準備」と「神の呼びかけに対する私たちの応答」から織りなす道のりです。 そこには、神の深い憐れみと強い願いがある。 神が準備しておられる命の世界があるのです。 それがどのようなものであったとしても、信仰という「決断」をもって喜んで応えて扉を開けるのです。 この私たちの「決断」は一回だけのものではありません。 この世にある限り、日々の「決断」の繰り返しです。 イエスはそのことを、「わたしに留まりなさい。 わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である。 わたしの父である神は農夫である。 わたしを離れては、あなたがたは何もできない。」と言われます。



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