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「神を信じなさい 祈り求めなさい」 マルコによる福音書11章12~25節 

2021-02-21

 主イエスはエルサレムの都に近づいた時、「もしこの日に、このエルサレムが神の平和への道をわきまえていたなら・・・今は、エルサレムにそれが見えていない。 神の訪れてくださる時をわきまえなかったから、やがて崩されてしまうだろう。」と嘆き、泣いたと言います。 この嘆きと憐れみをもって、イエスは思い違いをしているエルサレムの群衆の歓呼のなか都に入って行かれたのです。 空腹を覚えられたイエスが、遠くから葉の茂ったいちじくの木をご覧になり、その木に実がなってはいないかと近寄って行かれたと言います。 しかし、時期はいちじくの木に実がなる時期ではなかったので、そのいちじくの木に葉のほかは何もなかったのです。 そのことを確かめたイエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と、呪いのような言葉を語られたと言います。 それから、イエスはエルサレム神殿に入り、そこで売り買いをしていた人々を追い出した。 貨幣の両替を商売としている人々の台をひっくり返した。 犠牲の動物を売るために商売をしている人々の腰掛をひっくり返したと言うのです。 イエスのこの不可解な言葉と振る舞いに、私たちはなぜだろうと疑問をもったものです。 今までこう教えられてきました。 「いちじくの木」はイスラエルの象徴である。 季節ではないからと理由をつけて、この世に従って信仰の実を結ばないイスラエルの姿にイエスは落胆している。 イエスご自身がエルサレムに訪れているのに、この世の常識に埋没してしまって一向に実を結ばない。 神に仕える場所が神なき場所に陥ってしまっている。 今、父なる神から授けられようとしている恵みを受け取ろうとしない。 そう嘆くイエスの怒りのような象徴的な言葉と行動が、「いちじくの木への言葉」であり、「神殿での振る舞い」であった。 これはイエスの呪いでも罰でもない、悔い改めを求めたイエスのご愛であると教えられてきました。 しかし、そのすぐ後にもうひとつの段落が結びつけられています。 昨日イエスが預言されたとおりに、いちじくの木が根元から枯れてしまっているのを一行は確認します。 「先生、ご覧ください。 あなたが呪われたいちじくの木が枯れています」と語ったペトロの言葉に象徴されるように、私たちはイエスが語られた言葉を「呪いの言葉」と受け取っています。 枯れたことが確かめられたその直後に、なぜイエスは「神を信じなさい。 祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。 そうすれば、そのとおりになる。」と、「祈り」について言われたのでしょうか。 神殿での振る舞いの際にも、なぜ「神の家は祈りの家と呼ばれるべきであると書いているではないか」と聖書を引用されたのでしょうか。 実がならないのは季節のせいだとする「いちじくの木」に向かって、「このままでは枯れてしまうものとなる。 いつまでも実がならないものとなる。 その時がきている。」 ペトロが「言われたとおりになってしまっている」と叫んだその時です。 イエスは、「だから神を信じなさい。 だれでも。 少しも疑わず信じるなら、そのとおりになる。」と言われたのです。 イエスは季節でもないのに実がなっているか、神のみ心ならこの世がどうであれ実がなっているかご覧になろうとしたのです。 諦めて枯れてしまったいちじくの木に、「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい」と言われたのです。 神への信頼が祈りを産みます。 私たちの祈りはつくり変えられます。 神への変わらない信頼が、自分にふさわしい祈りをつくり上げていきます。 「祈り」が変えられると、人はつくり変えられるのです。 イエスの呪いの言葉と思われるような言葉が、希望と赦しの言葉に響いてこないでしょうか。 イエスの乱暴な振る舞いが、この世を操る霊に向かって激しい祈りによって戦いを挑んでくださる姿に映ってこないでしょうか。



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