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「モーセの静かなる断念」 民数記20章1~13節 

2021-01-10

 モーセは、ユダヤ人でありながら、赤ちゃんの時に拾われてエジプトの王宮で養い育てられた人物でした。 自分がユダヤ人であることを知らされたモーセは、同胞のユダヤ人がエジプト人の支配によって重労働に服していることに我慢がならなかったのです。 ひとりのユダヤ人がエジプトの監督者に傷つけられているのを目撃したモーセは、思い余ってそのエジプト人を殺害してしまった。 正義感の強かったモーセは、自分の正しさによって過ちを正そうとした。 しかし、モーセの引き起こした事件は、エジプトの法に従うしかなかったのです。 モーセはその発覚を恐れて荒れ野に身を隠すしかなく、諦めと無力さを背負いながら羊飼いの働きをしていたのです。 そこに、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。 それゆえ、わたしは降って行き、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地へ彼らを導き上る。 今、行きなさい。 わたしはあなたを遣わす。 わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」と神のお声がかかったのです。 エジプトから命からがら逃げてきたモーセは神にしり込みします。 「わたしは何者でしょう。 どうして、イスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。 果たして、人々がこのわたしに従うでしょうか。 彼らに何と答えるべきでしょうか。」 当然のように質問したモーセに神は、「わたしは必ずあなたと共にいる。 このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。 わたしはあってあるという者だ。 そのわたしがモーセあなたをつかわすのだと言うがよい。」と短く答えられたのでした。 
 諦めと無力感に苛まれながら歩む日々のモーセがこの時初めて、赤ちゃんの時に拾われて養い育てられたエジプトこそ、神の大きなご計画の場所であったことに気づかされたのです。 その時の神の約束が、「わたしは必ずあなたと共にいる。 それが、わたしがあなたを遣わすしるしである。」という言葉であったのです。 今朝の聖書箇所は、そのエジプトから大群衆を引き連れてもうすでに40年近く経った頃のことです。 「なぜ、こんな荒れ野に主の会衆を引き入れたのです。」と、不満、愚痴を繰り返す人々を忍耐強く導いてきたモーセです。 飲ませる水もなかった荒れ野でも、岩から水を出し人々と家畜に水を飲ませて養ったモーセです。 そのモーセに神は、この会衆と一緒に約束の地に入って行くことを拒絶されたのです。 人生の最終目的とまで思わされていた約束の地に入って行くことを、その地を目前にしてモーセはその願いを拒まれたのです。 それでも、この神の拒絶をモーセは受け容れて、自分が思い描いた目的の実現を断念しているのです。 モーセの人生の最後に神は、「これがわたしが誓った土地である。 わたしは、あなたがそれを自分の目で見るようにした。 しかし、あなたはそこに渡って行くことはできない。」と言います。 モーセはその地に入ることを神から拒絶されても、その死を前にしてもなお、神との間に安らぎと交わりを保つことができたのはなぜでしょうか。 「わたしは必ずあなたと共にいる。 それが、わたしがあなたを遣わすしるしである。」と言われた神の熱い眼差しでしょう。 この熱い視線を受けて歩むことのできた、喜びの人生体験でしょう。 神の決断とみ心は不可解のままであったとしても、この約束の体験が、モーセの確信を揺るがすことなく神への信頼を失わせなかったのでしょう。 この神の拒絶がなければ、願いや祈りが叶えられる都合のよい神に信頼していたとしても分からなかったかもしれません。 私たちの最初から最後まで熱い視線をもって捉えてくださっている神の側の確かさだけに、この新しい一年もまた委ねて信頼して共に歩んで参りたいと願います。



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