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「母マリアの目から見たイエス」ルカによる福音書2章41~52節

2020-12-20

 少年イエスは、いつも両親と一緒にいたのでしょう。 両親は、故郷ナザレに戻る帰路の途中、てっきり息子イエスが集団の中にいるものとばかり思っていた。 確認もしないでおよそ一日の歩く距離を歩み終えて初めて、両親は少年イエスがいないことに気づいたのです。 あちこち捜し回ったけれども見つからなかったので、元のエルサレムの都に引き返すはめになってしまった。 そこで両親が見つけた少年イエスの姿が、「神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられる」姿であったのです。 「聞いている人は皆、この少年イエスの賢い受け応えに驚いていた」と言います。 ルカは飼い葉桶の中の赤ちゃんの姿から、成人になる直前の少年イエスになるまでの姿を、「たくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。 知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」と繰り返し表現しています。 肉体においても、人格においても、神を感じ取る霊性においても成長し、本当の人間になってくださったと記しているのです。 母マリアにとっては、エルサレム神殿での息子イエスの姿は衝撃であったでしょう。 更に衝撃的であったことは、母マリアに対し発した息子イエスの言葉であったのです。 
 息子イエスをやっとの思いで見つけ出した母マリアは、当然のように言います。 「なぜこんなことをしてくれたのです。 御覧なさい。 お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」 これに対する息子イエスの発言が、「どうしてわたしを捜したのですか。 わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」というものでした。 叱っているマリアの言う「お父さん」とは、父ヨセフのことです。 しかし、イエスの言う「自分の父」とは、霊の世界の父なる神のことです。 両親が、このイエスの語る言葉の意味が分からなかったのは当然です。 母マリアはこの言葉を受け止められず、ただ「これらのことをすべて心に、ずっと納めていた。」とだけ記されています。 この衝撃的なエルサレム神殿での出来事が起こった後、割り切れない思いで心の中が覆われていた母マリアをしり目に、イエスはこの両親と一緒に何事もなかったかのようにエルサレムから故郷ナザレに戻って行ったのです。 もとのまま、両親に仕えてお暮しになったと言います。 イエスは十代の時に、父ヨセフを亡くしたようです。 木工職人であった父ヨセフの後を継いで、イエスは大工仕事をして家計を支えていたのでしょう。 何の変哲もない普通の人として30歳になるまで、両親に仕え、家庭に仕え、地域に仕えたイエスでした。 人の子として本当の人間になってくださって、たとえ血のつながった家族に理解されない悲しみがあったとしても、いよいよ神の子として故郷ナザレを出て行かなければならない。 神の国の福音を告げ知らせ、飲み干さなければならない苦い杯を飲むために、家族や家庭や故郷を捨てなければならない。 このことをすでにわずか12歳の時に自覚し、母マリアに懸命に伝えた言葉が、「どうしてわたしを捜したのですか。 父の家にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか。」という発言であったのです。 母マリアは、イエスが赤ちゃんの時から十字架の上でうなだれて息を引き取るまでずっと見ていたのです。 傷跡を残したままよみがえられた新しい命に生きるイエスを、「心の中にずっと納めていた」のは母マリアでした。 マリアは人の子でありながら、神の子として生きる息子イエスの苦しみ、喜びを事実として見届けた最初の証人です。 その証言をルカは、誕生物語と少年イエスの神殿での出来事を母マリアを通して語っているのです。 私たちもまた、イエスを心の内に迎え入れる戸惑い、苦しみがあるのかもしれません。 しかし、マリアが受け止めたように、このお方を喜んで感謝して受け容れるなら本当の安らぎと確信が沸き起こるのです。



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