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「わたしたちの平和としてのキリスト」エフェソの信徒への手紙2章14~22節

2020-12-13

 パウロは、「実に、キリストはわたしたちの平和であります。 二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。 こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」と言い切っています。 ユダヤ人と異邦人との和解を前提として、キリストによる平和がもうすでにここで起こされた。 「敵という隔ての壁」は取り壊されたと、パウロは事実として和解の出来事を語っています。 残念ながら、私たちは今もなお社会の中で、また家庭の中で、この「敵意という隔ての壁」を日常茶飯事のように目にし、耳にします。 自分自身の姿を振り返ってみても、残念ながら現に脈々と存在し続けている動かしがたい現実の壁に虚しさを憶えます。 そうであるのに、なぜパウロは、キリストによって「敵意という隔ての壁」が取り壊されたとまで言い切ることができたのでしょうか。 
 「敵意」という言葉から思い起こされる聖書の出来事があります。 過ちを犯し、現場で捕らえられたひとりの女性が、律法を厳格に守ることを務めとする律法学者やファリサイ派の人々によって連れて来られた場面です。 律法学者たちは、民衆の真ん中にその女性をさらし者にして、イエスに「この女性は過ちを犯しました。 その現場で取り押さえられた者です。 律法の戒めには石で打ち殺せと命じられています。 あなたならどうしますか。」と迫った時です。 かがみ込んでいたイエスが立ち上がって、「あなたたちのなかで罪を犯したことのない者が、まず、この女性に石を投げなさい。」と言われた。 そして、再び身をかがめて、この女性とともに石を身に受けようとされたと言います。 このイエスの言葉、イエスの姿から、その場にいた人々は、「一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中でさらし者となっていた女性だけが残った。」とあります。 あれほど、このような過ちを犯した者には、石を投げつけるべきだと勢い込んでいた人々が、いつしかその「敵意」がかき消されていく。 石を握りしめるまでに膨らんでいた民衆の正義感の塊が、次第にしぼんでいく不思議な空間を体験しています。 だれも過ちを犯した女性を罪に定めることができなかった。 石を投げつけることができなかった。 「敵意」に翻弄される民衆、「敵意」を用いて奔走する律法学者たち、そして罪を犯してしまったひとりの女性の間にあった「隔ての壁」が消えてなくなった。 「隔ての壁」の内と外に置かれていた、その区別がなくなっていった。 その事実を聖書は端的に語っています。 イエスが「取り残された人々、壁の外に追いやられた人々、締め出されていた人々」に目を留められたのは、この「敵意という隔ての壁」を取り壊すためです。 過ちを犯したひとりの女性も、そこから立ち去った民衆にも、また自分の正しさに燃えている律法学者たちにもイエスの目は注がれています。 イエスは、すべての人に神の国の福音を告げ知らせるために、私たちがつくった壁を壊すために、私たちと同じ人間となってくださった神なのです。 私たちの心の内には、この「敵意」が存在します。 この現実の壁に目をつぶってはならないように思います。 自分ではどうすることもできない現実の中にあることを、私たちは先ず知ることです。 これがイエスと出会う準備となります。 自分を正しさや美しさや忠実さの中に閉じ込め誇ってしまうと、イエスに見出されていることに気づかないままに、自分に頼り、自分を誇り歩んでしまうことになります。 「敵意」にまみれた一人一人の現実に、イエスが働いて見出してくださったときに起こる事実と、その時には「神の家族になる。 神の住まいになる。」という約束を語っています。



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