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「神の恵みによって生きる」 マルコによる福音書10章17~27節

2020-11-01

 これからエルサレムで起こされる十字架への苦難の道を歩まれようと、イエスが先を急いでいたその時、「ある人がイエスのもとに走り寄ってきた。 そして、ひざまずいて尋ねた。」と言います。 思いつめた様子で、「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」とイエスに端的に求めたのです。 イスラエルの人びとは、自分たちこそ神に選ばれた民である。 神が求めておられる律法の戒めを固く守るなら、神の国に入ることができる。 そこに生きる新しい命を受け継ぐことになると教えられていたし、そう信じていたのです。 しかし、その人はそのことにどうしても確信をもつことができなかった。 この正直な疑いを心の中にもちながら、イエスに引き寄せられ、今日、このお方にお会いし、お尋ねしなければならないと心に決めていたのでしょう。 そういう意味では、真剣なひとりの求道者とイエスとの出会いです。 イエスはこの正直で真面目な人に、「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。 神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」と答えられたのです。 「善いこと、正しいこと」というものさしに縛られている彼の姿をイエスは見抜いておられたのでしょう。 神以外に「善いこと、正しいこと」などない。 神無くして、神を知らずして、「善いこと、正しいこと」など存在しないと聞こえてきます。 
そして、「他に何をすればよいでしょうか」という彼の問いに、イエスは「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」という、律法の後半部分を敢えて語られたのです。 このイエスの答えに彼は落胆し、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と胸を張る彼の姿を、イエスは「じっと見つめ、慈しんだ」と言います。 教えられたとおり戒めを守り生きることが、彼の「正しい、善い」というものさしでした。 こうした生き方の先に、神の国がある。 神の国の新しい命があると彼は思っていた。 今までにない何かをすることによって、確信を得ようと必死にイエスにすがったのでした。 そのイエスの答えが、「あなたに欠けるものがひとつある」というものでした。 神の求めておられることを果たしていると胸を張る、その姿に目を留めて慈しんで憐れまれたのです。 神が求めるひとつひとつの戒めを守るために、彼は果たして「痛み」や「悲しみ」を本当に味わってきたのだろうか。 その思いが、「あなたに欠けているものがひとつある。 今、持っている物を手離して、それから、わたしに従いなさい。」という言葉です。 イエスのこの渾身の言葉を聞いた彼は「この言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。」と言います。 彼はこれまで申し分なく自分を高めてきた人物です。 自分を高める更なるものをイエスに求めたのです。 イエスは、彼は自分の手もとから奪い取られる、あるいは失われるという悲しい経験をしたことがないのではないか。 あるいは断念せざるを得ない、捨てなければならない苦渋の決断をしたことがないのではないか。 いやその決断を避けてきたのではないか。 イエスは彼が悲しみながら立ち去った理由を、「たくさんの財産を持っていたからである」と言います。 イエスは、財産の多寡をもって語っているのではありません。 この世の神ならぬものに依存する者はその神ならぬものに縛られて、神ならぬものを失うことや奪われることを極端に恐れ、神の国に入ることを難しくする。 「神と冨に兼ね仕えることはできない」とイエスは言われました。 自分の本当の姿を見つめさせられて涙することこそ、神のご愛に出会う時です。 神のご愛によって起こされる悲しみ、苦しみがあるのです。 共に悲しみ、苦しんでくださる主イエスが、慈しんで備えてくださった恵みに私たちは気づきましょう。 その恵みに大いに期待し、信じ、委ねて生きていきましょう。



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