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「神に愛されて互いに愛し合う」 コリントの信徒への手紙一9章19~23節

2020-11-08

 パウロは、「すべての人に対してすべてのものになりました。」というその例示に、「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。 律法に支配されている人に対しては、律法に支配されている人のようになりました。 律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。」と言います。 その理由は、「それらの人たちを得るためです」と言うのです。 この段落の前の16節に「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。 そうせずにはいられないことだからです。」と告白し、それらの人たちに「福音を告げ知らせるためです。 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。」と書き綴っています。 このパウロの熱心さはどこからくるのでしょうか。 パウロを突き動かせているものはいったい何でしょうか。 パウロのどんでん返しのような人生を振り返れば、キリスト者を迫害する者からキリストの福音を告げ知らせる者へと大転換させられたということだけでも奇跡です。 ユダヤ人からもユダヤ教徒からも「裏切者」と命を狙われ、信用されず拒まれ、それでもパウロが「ユダヤ人のようになる、律法に支配されている人のようになる、律法を受け入れないでいる人のようになる、弱い人のようになる」のは、果たしてどうしてでしょうか。 相手に対する妥協でも、目的のためなら何でもするという打算でもないでしょう。 パウロは、「どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない。」(ローマ8:38-39)と言うのです。 劇的なイエスとの出会い、このイエスによって示された神のご愛に触れたなら、誰一人としてこの「喜び、福音」を知らないままでいてほしくない。 この「喜び、福音」を味わった者として、居てもたってもいられない、その隣人を放っておくことができない。 これがパウロの、「すべての人に対して、すべての人のようになりました。 何とかして何人かでも救うためです。」という心の内なのではないでしょうか。 神のご愛、福音を伝えるために、伝えようとするその相手、隣人と同じ位置に立つということでしょう。 同じ場所に立ち止まって、そこで共に神のご愛、恵みに触れて喜び合う。 感謝し合う。 そうなれば、そこには伝える側の誇りだとか、信念といったような持ちものは消えてなくなるでしょう。 自分に拠って立つものを捨てて、それでも隣人、相手に寄り添っていくことになるのでしょう。 
 しかし、この「すべての人に対して、すべての人のようになりました。」という言葉には、人と人との「寄り添い」という狭い範囲を超えたもっと深みのある響きを感じます。 イエスは、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。 わたしの愛にとどまりなさい。 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。 これがわたしの掟である。」(ヨハネ15:9-12)と言われたのです。 「わたしが愛して、その愛の中にあなたがたがとどまっているなら、隣人に向かってその目は向かうはずである。 わたしによって示された神のご愛に気づいた人、神に愛されている、赦されていると気づいた人こそ、同じように神に愛される存在である隣人に目が向くことになるはずである。 神のご愛に触れることができたのなら、同じように互いにそのご愛を喜ぶようになる。」と、神の国の世界の厳粛な事実を語っておられるのです。 パウロもまた、「すべての人に対して、すべてのものとなりました。 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。 それは、わたしが福音に与る者となるためです。」と、自分自身の見に起きた厳粛な事実を語るのです。



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