秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「伝える側と伝えられる側」 マタイによる福音書7章1~6節

2020-10-11

 1節から4節までは、「人を裁いてはならない」ということがテーマとなっています。 それは「自分もまた裁かれないようになるためである」と言います。 人はとかく自分のものさしで人を量り、人を区別します。 道徳的にもよく分かる話です。 しかし聖書はそうではありません。 人を裁くということは神がなさることだと聖書は言います。 「人の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中にある丸太に気づかないのか」と言われるのは、神の前にということです。 人の中にある些細な「おが屑」を見つけ出して、自分の中にある「丸太」の大きさに目を閉じてしまう。 この自分の本当の姿、神の前の傲慢さを、イエスはこのように表現しておられるのです。 私たちが人の中に見る過ちに比べれば、神の目に知られている私たちの過ちははるかに大きい。 どんなに取り返そうとしても取り返しのつかない過ちである。 主イエス・キリストの十字架の翼によって覆われなければ償うことのできないほどの大きさである。 「そうした状態に先ずあなたがたは気づきなさい。 神の前にある自分の本当の姿を知り、赦していただきなさい。 それは神によって裁かれないためである。 そうすれば、人の本当の姿を知るようになる。 だから、互いに赦し合いなさい。 そうすれば、あなたがたも主イエス・キリストの十字架によって神に赦される。」とイエスは言われるのです。 そのことを5節で、「まず自分の目から丸太を取り除け。 そうすれば、あなたがたは自分の姿がはっきり見えるようになって、人の目からおが屑を取り除くことができるようになる。」とイエスは促しておられるのです。 
ここまでは、このみ言葉を受け入れることはさほど難しいものではないでしょう。 問題はこの1節から5節に続くイエスのみ言葉です。 「神聖なものを犬に与えてはならない。 真珠を豚に投げてはならない。 それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」という、どう受け止めてよいのか難しいみ言葉が続きます。 一般的に言われる「豚に真珠」ということわざに似たことをイエスは告げているのでしょうか。 「まず自分の姿がはっきり見えるようになって、それから人の姿を見るように」と言われたのです。 自分の姿、人の姿が見えるようになって、人の目の中にあるおが屑を取り除くことができるようになったのなら、「神聖なもの、真珠を犬や豚に投げ与えるようなことをしてはならない」と、弟子たち、私たちの信仰の在り方を問われたのではないかと思わされるのです。 いったい誰が「犬」であり、「豚」であるのか判断するのでしょうか。 神の前にはほぼ同じです。 人を「犬」や「豚」のように見なしているその在り方、そして「真珠」をもっていないと決めつけて人に与えようとする姿に、イエスは警鐘を鳴らしておられるのではないか。 神聖なもの、「真珠」は代えがたい神から与えられるものです。 私たちが所有できるようなものではない。 神から与えられ、恵みとして受け取るものです。 神から働きかけられて、驚いて味わう体験です。 その都度、イエスが霊となって私たちの内に入り宿られて初めて、私たちの中に湧いて出てくる神の命、力です。 私たちの中に「真珠」を持つのではなく、私たちの中で神の働きによって「真珠」になるのです。 そこに救いの喜びの出来事が起こされるのです。 神のみ言葉が生きた言葉となって、私たちの中に宿る。 何をもってしても打ち消されることのない出来事となって刻み込まれて、「真珠」になるのです。 「伝えられる側」の相手が「豚」であるのか「犬」であるのかという問題ではなく、「伝える側」の問題として、本当に神のみ言葉が生きて働いて「真珠」となっているのかどうかです。 「真珠」となって刻み込まれる出来事が起こされることを私たちが祈り願っているかどうかです。



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