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「イエス・キリストとの出会い」 マタイによる福音書11章2~11節

2020-07-12

 人の人生は一回限りの、ほんのわずかな一日一日、一瞬一瞬の積み重ね、一回限りの瞬間の連続です。 その時毎に人が選び取る姿、思いが現れ出てくるのです。 この選択がまったく私たちに委ねられている恵みを憶えます。 神は私たちの心の扉をたたいてくださっているのです。 その時の流れの中で私たちはそれに気づき、その扉を開けなければならないのです。 
 ヨハネにはためらいがありました。 ヘロデ・アンティパスによって獄中に捕らえられ、その誕生日に一夜の享楽のために首をはねられるという、哀れな道をたどるヨハネでした。 ひとりさびしく牢獄に捕らえられて、今まさにその生涯を終えようとしています。 メシアが訪れるその時までの道備えをするという神から与えられた務めを、今さまに失いかけていた時です。 果たしてイエスはメシなのだろうか。 伝え聞くイエスの行っている業は、メシアとしての働きなのだろうか。 ヨハネが予想し、待望していたメシアとしての姿、働きとは違う。 ヨハネには期待を裏切る姿、働きに見えた。 自分の弟子を送って、「来るべきお方は、あなたでしょうか。 それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」と、イエスに尋ねさせたと言います。 このヨハネの弟子たちの質問へのイエスの答えが、「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。」というものでした。 今、現実に見えている事実を伝えるようにとイエスは言われたのです。 その事実とは、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」 そうした現実を伝えたうえで、「わたしにつまずかない人は幸いである。」と言われたのです。 イザヤ書35章5~6節に、メシアが訪れる時の預言が記されています。 「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。 そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。 口の利けなかった人が喜び歌う。 荒れ野に水が湧きいで 荒れ地に川が流れる。」と記されています。 メシアの到来を預言している事実が、今、ここに成し遂げられているとイエスはヨハネの弟子たちに言わせているのです。 注意深く読みますと、旧約聖書の預言にはなかった「死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」という事実を付け加えているのです。 イエスご自身こそ、旧約聖書の預言者たちがメシアが到来したらこうなると言われていたことを実現する者である。 旧約聖書が語るメシア以上の、死んだ者に命を与える者である。 自分の弱さ、罪深さを知る心の貧しい人々に神の赦しの恵み、救いのよき知らせ「福音」をもたらす者であると、その事実の報告をもってヨハネに伝えているのです。 ヨハネの弟子たちがヨハネのもとに帰った後に、イエスは群集に語ります。 「ヨハネは今までの預言者以上の者である。 旧約聖書が預言してきた神の救いの約束を橋わたす最後の預言者である。 あなたたちが荒れ野に出かけて行って、出会おうとしたのはこの預言者に出会うために出かけて行ったのではなかったか。 このわたしへの道を備えるために荒れ野で呼ばわっていたヨハネに出会うためではなかったか。 ひいては、このわたしに出会うためではなかったのか。 ヨハネはおよそ、生まれてきた者のうちで最も偉大な者である。 このわたしにつなぐ最後の道備えを果たした人物である。 しかし、これからつくりあげられる神への道、わたしの十字架の道によって果たされる救いの道を通って神のもとに憩う者、十字架の裁きによって赦されて、神の国に入ることのできるもっとも小さな者でも、ヨハネより偉大である。 だから、このわたしを通って神の国に入りなさい。 このわたしにつまずかない人は幸いである。」と言われたのです。



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