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「人の計画と神の計画」 箴言16章1~9節

2020-06-07

旧約聖書の「箴言」は、この世で言う人間の身のこなし方を、「教訓や戒めや格言」として語っているのではありません。 「神の知恵」について語っています。 「主を畏れることは知恵の初め。 無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」と言います。 限りのない神の知恵、私たちには測りがたい捉えどころのない神の知恵を、神への畏れを前提に語っています。 神の知恵に与るには、神を畏れることから始まる。 神への畏れがあるなら、人生のどのようなところにおいてもこの「神の知恵」に委ねることができるようになると語るのです。 新約聖書では、旧約聖書で語られている「神の知恵」そのものがイエス・キリストである。 「知恵と知識の宝はすべてキリストの内に隠れています。」(コロサイ2:3) その「キリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられた。」(コリント一1:30)と信仰告白しています。 聖書で言う「知恵」とは、人の目や耳には隠されている「神の知恵」です。 触れることによって、味わい体験することによって自分自身の愚かさを知らされます。 愚かな自分に砕かれて、思いをはるかに超えたスケールの大きな「神の知恵」に気づかされる時がくるのです。気づかされたその「神のご計画、神のみ心」にその身を委ねることができるようになる。 それに信頼を置いて生きるようになると語っているのです。
 1節と2節に、「人間は心構えをする。 主が舌が答えるべきことを与えてくださる。 人間の道は自分の目に清く見える。 主はその精神を調べられる。」と言います。 人間は様々な計らいをもちます。 自分の知恵をもっているのです。 短い生涯のなかでそれぞれにふさわしく築き上げてきているのです。 聖書はそれらのものを肯定も、否定もしていないように思います。 しかし、「人間の知恵、人間の思い、人間の計画」と、「神の知恵、神の思い、神の計画」とは異なるとはっきり語っているのです。 イエスは愚かな金持ちの譬えでこう語っています。 「自分のために富をいくら積んでも、神の前に豊かにならない。」 人間の計画するもの、備えるものほど頼りないものはない。 動かしているのは、神の知恵、神のみ心、神の計画である。 神の愛が私たちを動かしていることに、また、支えているのは神の力、神のご真実であることに気づかないのかと響いてきます。 人間は、自分の知恵で動くことによって裏切られ、挫折し、絶望し、砕かれていくのです。 その挫折、絶望の彼方に初めて、神のご愛、神の力、神のご真実があること、それが動いていることに気づかされるのです。 そこにはまったく次元の違う「神のご計画、神の知恵」が存分に働いて、長い時を経て私たちを支え導いてくださっていることに初めて気づかされるのです。 私たちの頼りない計り事とはまったく異なる「神の計画、神の知恵」に、たとえ分からなくても、信じることができなくても、イエスはそれに委ねなさいと言われるのです。 マリアは、自分の身に幼子イエスが宿ることを告げられても喜ぶことはできませんでした。 自分のものさし、常識では受け止めることができなかったのです。 イエスが十字架に架けられるまで、不安と思い煩いの連続でした。 それでも、マリアは神のご計画が分からなかったけれども、信じ切ることはできなかったけれども、「神の約束、神の計画、神の知恵」にその身を一生涯委ねてささげる「祈りの生涯」でした。 箴言16章は、だから「あなたの業を主に委ねれば、計らうことは固く立つ。 主は御旨にそってすべての事をされる。 人間の心は自分の道を計画する。 主が一歩一歩備えてくださる。」と言っているのです。 「委ねる」ということは、神のご愛、神の力、神のご真実に動かされて、自分が選び取った道を主を仰ぎながら従って行こうとする「祈りをもつ」ことです。



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