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「わたしの羊を飼いなさい」 ヨハネによる福音書21章15~19節

2020-03-22

 聖書が語る「復活」は、私たちが日本語訳として用いる「復活」という言葉以上の響きがあります。 確かに聖書には、イエスが人をよみがえらせた事例が記されています。 しかし、それらはむしろ、この世の命の「蘇生」を示しています。 イエスが神の子であることの「しるし」として、神がお示しになったものでしょう。 イエスは、この「復活」を信じようとしないサドカイ派の人々の問いに、「死者の中から復活するときには、めとることもなく嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。 律法に『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と書いてあるではないか。 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」と答えておられます。 聖書の言う「復活」とは、この世の延長線上にはない。 単なる生き返りとは異なり、神と人との関係において大きな変貌が遂げられる驚くべき出来事である。 この世に生き「死んだらおしまい」という世界から解放されて、新しい希望のうちに生かされる。 アブラハムはアブラハムとして、イサクはイサクとして、ヤコブはヤコブとして、神の前に新しい関係となって、神のもとに立ち帰る変貌がそれぞれの人生に起こされた出来事であると聖書は語っているのではないでしょうか。 
 イエスの「復活」そのものを詳細に記している聖書箇所はありません。 しかし、大きく分けてふたつの体系の描写があるように思います。ひとつは、「空(から)のお墓」の描写です。 もうひとつは、死んだはずのイエスが「顕れた」という描写です。 今朝の聖書箇所は、目的を失いイエスを裏切って見捨てて逃げ出してしまった七人の弟子たちが、失意のうちにガリラヤに戻って漁をしていた際に、十字架に架けられて死んだ後よみがえられたイエスが顕れた、その直後に交わされたイエスとペトロの対話です。 イエスは、思い出したくもない大失敗をしたペトロに呼びかけます。 呼びかけた言葉は、「わたしを愛するか」という言葉でした。 三度繰り返されたと言います。 この言葉には、「わたしはあなたを愛している。 あなたは、このわたしを愛するか。」という響きがあります。 挫折を深く味わったペトロは、自らの情けない姿を悲しんだのでしょう。 「主よ、あなたは何もかもご存じです。 わたしが三度、あなたを裏切ったことも、これから裏切るかもしれないこともご存じです。 わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」と答えるのが精いっぱいでした。 そのペトロにイエスは、「わたしの羊の世話をしなさい。 わたしの羊を飼いなさい。 わたしはあなたを赦す。 だから、わたしの羊をあなたに託す。 今までのあなたはどうであれ、これから後、あなたにわたしの羊を委ねる。 あなたは、わたしを仰いでわたしに従いなさい。」と言われたのです。 この言葉を聞いた時こそ、裏切りを悔やみ、惨めな姿を思い知らされ、悲しんで挫折を味わったペトロという人物が、その罪を赦されたと実感した瞬間であったでしょう。 再び新しく立ち上げられ、希望に満たされイエスのもとに立ち帰った瞬間であったでしょう。 私たちは、イエスが今もなおずっとご覧になっていることに気づかないのです。 呼びかけられているのに、聞こうとしないのです。 招かれているのに、理由を述べてその食卓につこうとしないのです。 私たちの住んでいる世界には、この赦しなどない。 復帰も再生もないのです。 しかし、「復活」されて今もなお生きて働いておられるイエスに気づいて、そのお声に聴いて、差し出された恵みを受け取って一緒に食卓につく時には、この赦しと解放の出来事は必ず起こるのです。 これこそ、ひとりの人物がまったくつくり変えられる「復活」の瞬間です。この「復活」には、「わたしの羊を飼いなさい。 わたしに従いなさい。」という務めが復活されたイエスから託されるのです。



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