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「クリスマスの驚き」 イザヤ書53章1~5節

2019-12-01

 預言者イザヤは、救い主メシアは「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように主の前に育つ」と預言しています。 ユダヤ教の中から起こされてきた最初の頃のキリスト者は、「十字架に架けられて処刑されて死んだはずのナザレの人イエスが、墓の中にない。 よみがえったとしか言わざるを得ないように、自分たちの前に姿を現してみ言葉をかけられ、一緒に食事し、交わり、共に生きてくださった。」と証言し始めたのです。 イエスというひとりの人間が死から復活した。 それは神の起こされた出来事であった。 このお方こそ、神ご自身のもとに立ち帰る人間の歩む「道」となってくださった。 見ることも、聞くこともできなかった暗闇の世界を照らす「光」となってくださった。 肉体の死に縛られている世界から解放されて、神のもとに憩う新しい霊の世界に生きる「命」となってくださった。 そのことに最初に気づかされたキリスト者たちにとって、現在の私たちと同じようにイエスの「復活」は驚きの出来事であったのです。 いったいどのような力が働いて、どのように成し遂げられたのか、説明することのできないことであったのです。 この驚くべき「復活」という神の救いの出来事を見つけ出したキリスト者が、このメシアの誕生、イエスの誕生について福音書にこう証言しています。 イエスの誕生は、名も知られていないヨセフとマリアというありふれた二人に赤ん坊として与えられた。 生まれる場所さえ用意されていなかった、粗末な扱いであった。 しかし、ありふれた大工の息子として育てられたその子どもが、霊の導きによって人とはまったく異なる成長をした。 親でさえその振る舞いを理解することができなかった。 苦しみ、悲しみの中にある人、虐げられている人の側に立って、その不思議な力から病いを癒し、心の平安を与えた。 人々からは、このお方こそ自分たちの国を再び復興させるお方として期待され、担ぎ上げられるようになった。 しかし、自分たちが望むものではないと分かった人々は、今度は手のひらを反すように見捨て、軽蔑し、十字架という惨い処刑によって殺害した。 まさにイザヤが預言したように、「見るべき面影も、輝かしい風貌も、好ましい容姿もない、軽蔑され、見捨てられた」存在でとなったのです。 「神の手にかかり、神の罰によって打たれたから、苦しんでいる」姿に見えたのです。 それは、隠された神のみ心でありました。 「わたしたちが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。」(コリント一2:5)  十字架に架けられたイエスの姿こそ、神がこの世に遣わしたご計画であったのです。 私たちは、この神のみ心に従ってみようとしないから、自分たちの望みだけに頼ってみようとするから、イエスの振る舞い、イエスがなされる姿を受け取ることができないのです。 受け取ることが難しいのは、イエスの十字架を受け入れることが難しいのではないように思います。 イエスの十字架の姿は、私たちのすべての弱さ、醜さ、過ちを担ってくださった姿です。 自分の醜い姿こそ、その姿であることを認めることが私たちには難しいのです。 自分の弱さ、醜さを見つめざるを得なくなる恐れを感じるからです。 イエスの十字架の前に私たちが立つなら、その姿を突きつけられるからです。 暗闇は、光に照らされることを恐れます。 自分が暗闇であることを認めたくないのです。 罪は、神の正しさの前に出ることを避けます。 自分の醜さを晒したくないのです。 イエスは私たちに替わって、神に砕かれるため、懲らしめを受けるために十字架に架けられたのです。 私たちに神との交わりを回復させるためです。 それが神のみ心であるからです。 イエスの誕生の出来事は、この隠されていた神の救いの業を、驚きをもって「十字架に架けられた」醜いイエスの姿とともに見つめなければなりません。



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