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「神の備えに生きる」 創世記22章1~14節

2019-11-17

神の約束の言葉だけを信じて従ってきたアブラハムは、神から愛され、常に神とともにある存在でした。 不可能と思われる子どもさえも晩年には与えられ、その祝福のしるしとも言える恵みに神を賛美することを忘れず、礼拝を怠らなかったアブラハムでした。 神に「アブラハムよ」と呼びかけられ、「はい、ここにいます」と応えることのできる、神との親しい交わりの中にあったアブラハムでした。 そのような祝福に満たされ、信仰に大きな欠けがあるとは思えないアブラハムを神が試したと言われるのです。 試したというよりは、命じられたとあります。 その命令の中味が、「あなたがもっとも大切にしている、あなたが愛してやまない息子、独り子イサクを一緒に連れて行きなさい。 わたしが命じるところ、モリヤの地、わたしが命じる山の一つに登りなさい。 そして、そのイサクを焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」というものであったのです。 神は何ゆえに、生々しい残酷さを秘めているこの試みをアブラハムにかけなければならなかったのかと問いただしくなります。
 ところがアブラハムは、この神のご命令にためらったり、思い悩んだり、動揺することなく、直ちに翌朝早く、黙々と自ら「ろばに鞍を置いた。 献げ物に用いる薪を割った。 神の命じられるところに向かった。」のです。 そして、三日目にその命じられたところに到着したと言います。 この惨い内容を秘めている神のご命令を内に抱いて、父と息子がともに向かう三日間の姿を思い浮かべてみてください。 親子ふたりの心の中にある思いを想像してみてください。 何とも言えない重苦しさを感じます。 神が命じた場所に到着した父アブラハムはついてきた若者たちに、「わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」と、これから起こるであろう残酷さを秘める出来事を、まるで息子と一緒に礼拝をする出来事であるかのように思っています。 息子イサクは、「わたしのお父さん」と父アブラハムに呼びかける。 父アブラハムは、すぐさま、「わたしの子よ」と応える。 父と息子の間に緊張感が漂っています。 「お父さん、火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」と問う。 薄々、息子はこれから起こるであろう出来事を感じ取っていたのかもしれない。 どう答えてよいのか分からない父には沈黙があったのかもしれない。 「わたしの子よ、きっと神が備えてくださる。」に違いないと答えるしかない。 この答えに息子は納得したのでしょうか。 父は、息子の疑問に十分答えたと思ったでしょうか。 この短い対話の後、神が命じられた場所に、神が命じたことを成し遂げるために、それ以上何も語らず、二人は一緒に歩いて行って、祭壇を築き、息子をささげるという神への礼拝をささげようとしたのです。 
神が命じられた場所は、父アブラハムと息子イサクの二人だけでしか行くことのできなかった場所です。 互いに「わたしのお父さん、わたしの子よ」と言うだけで、何も語らず神にささげる二人だけの礼拝のために赴く親子の姿です。 父アブラハムは、この三日間の沈黙の重苦しい歩みの中で知らされたのでしょう。 神によって与えられたものを神にお返しする。 これから神ご自身から与えられるものを、愛する息子と一緒に受け入れようとする。 神が求めて奪い取っていかれるものを、息子と一緒にお返ししようとする。 25年間、待ち続けて不可能と思われた息子の命をさえ叶えて与えてくださった神を信じることができた。 その神にはご計画があることを信じることができた。 神はすべてをご存じで、神ご自身が説明してくださると委ねることができた。 息子をささげただけでなく、アブラハム自身もまた、神にささげることができたのです。 そこで神が、備えに気づかせてくださったのではないしょうか。



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