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「右手を取って立ち上がらせる」 使徒言行録3章1~10節

2019-10-06

「生まれたばかりの教会の群れ」の姿を、使徒言行録はこう語っています。 使徒たちを通して語られたイエスの教えに熱心であった。 イエスの語られたみ言葉を生きた言葉として、その上に土台を置いて生きていたと言います。 そして、相互の交わりに熱心であった。 ひとりが背負う十字架がもうひとりの痛みや破れを覆い包み、互いに神のご愛や恵みを喜んで分かち合っていたのでしょう。 パンを裂くことにも熱心であったと言います。 イエスが自分たちのために十字架のうえで裂いてくださったからだを覚え、繰り返し賛美し、礼拝することを忘れなかったのでしょう。 そして、祈ることに熱心であったと言います。 ひとつの塊となって祈る姿です。 隣人の口から出る言葉によって励まされ、慰められる体験でしょう。 腹の底から「アーメン、その通りです」と唱和することのできる幸いでしょう。 そのような「生まれたばかりの教会の群れ」の姿に、イエスの起こされた様々なみ業が起こった。 彼らの姿を見つめた人々に、彼らとともに神がおられるという畏怖心が起こされたと言うのです。 「多くの不思議な業としるしが行われた。 人々が、彼らの姿に好意を寄せ始めた。 同じように救われる人々が日々加えられていった。 ひとつにされていった。」と言います。
 この群れの代表とでも言うべきペトロとヨハネが、祈るために神殿に向かう途上のことでした。 ペトロとヨハネがひとりの男の姿に目を留めました。 「生まれながら足の不自由な男」でした。 神殿の境内に入る門に、人々の施しを求めるために連れて来られ、そこに放置された男です。 その惨めな男の姿に、ペトロとヨハネが目を留め、足を止め、じっと見つめ「わたしたちを見なさい」と語りかけたと言うのです。 そしてペトロは、「わたしは金や銀はもっていない。 あなたが願い求めるものは何ひとつ持ってはいない。 しかし、わたしが持っているものをあげよう。」と語りかけたのです。 ペトロとヨハネたちが神からいただいたものは、ただひとつです。 イエスが天に上げられる前に語った、父なる神が約束してくださった聖霊だけです。 十字架にかけられて死んだそのイエスを、神が自らのもとへ引き寄せ、新しい霊の命に生まれ変わらせ、再び、私たちのところに霊の姿をとって遣わしてくださった復活の主イエス以外に、彼らは何も持っていないのです。 ナザレの人イエス・キリストの名によって語る言葉以外に、自分たちは何ももっていない。 しかし、このみ言葉に立つならば、死んでいるものでさえも、神の世界に生きる霊の命に生き返らされる。 この力と重みを体験していたからこそ、足の不自由なひとりの男に「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と語りかけたのではないでしょうか。 その次です。 ペトロは語りかけただけでなく、その惨めな男の右手を取って、立ち上がらせたと言うのです。 
 これは、ひとりの男のからだの癒しを語っただけの出来事でしょうか。 ペトロたちは聖霊に満たされて、新しいものに造り変えられています。 そのうちには、ナザレの人イエス・キリストを宿しています。 お互いがイエスのみ言葉を思い起こして、交わりによって、礼拝によって、祈りによってひとつの塊とされています。 その彼らが目を留め、足を運び、語りかけ、自分たちのなかにあるイエス・キリストを証ししているのです。 この連帯の中に、ペトロたちはその惨めなひとりの男と共に生きているのです。 ですから、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と呼びかけ、その名を挙げて祈ったのです。 これが「生まれたばかりの教会の群れ」の働きであると、からだの癒しにとどまらない劇的な変化をもたらす象徴的な出来事として、凝縮して書き記したのではないでしょうか。 



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