秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「聖霊を受ける準備」 使徒言行録1章12~26節

2019-09-15

この聖書箇所は、「あなたがたは、エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 あなたがたはまもなく聖霊によるバプテスマを授けられる。」と語って、弟子たちのもとから離れて天に上られた聖書箇所と、「弟子たち一同が一つとなって集まっていると、突然、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」という聖書箇所のはざまに挟み込まれています。 主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられて、人を生きる者としてくださいました。 もし、吹き入れられた霊が取り去られるなら、人は土の塵に帰ると創世記に記されています。 逆に、肉に生きていただけであった人が、もし、神の霊に気づいて神の方に向きを変えて戻って来るなら、神が霊を吹き込み、生き返らせるとエゼキエル書に記されています。 
 イエスの十字架と復活直後のイエスの弟子たちは、十字架に架けられたイエスをそれぞれに裏切ってしまった悔いと苦しみと寂しさを憶えながら、また、自らの身に危険が迫る行く末に不安を憶えながら、肩寄せ合って祈り合っていたのです。 「百二十人ほどの人々がひとつになっていた」と言います。 イエスの「聖霊が授けられるのを待ちなさい」というご命令に従っていたのです。 肉においては確かに生きていたのでしょうが、神との交わりを失いかけ、望みが失なわれつつあった状態であったのです。 しかし、彼らはそれぞれに、イエスの歩まれたお姿、語られた一言一言を思い起こしていたのではないでしょうか。 イエスがなぜ十字架に架けられたのかも分からなかった。 その処刑されたイエスが復活されたことを知らされても信じることができなかった。 それでも「聖霊を待ち望みなさい」と言われて父なる神のもとへと帰って行かれたイエスを目の当たりにして、この十字架の死と復活、そして天に上られて行った出来事の目撃者となって事実に向き合って、互いにその意味を語り合っていたのでしょう。 違いはあるもののイエスを裏切ってしまった、それぞれの過ちが示されていたのでしょう。 それぞれの過ちを言い表して、互いのために祈り合っていたのでしょう。 聖書のみ言葉が語られ、吟味され、自分たちの務めについて語り合った五十日間であったのです。 
 そこで弟子たちは、どうしても避けることのできない事実があったのです。 12人の使徒であったユダの裏切りです。 あってはならないこの事実を、どう受け止めていいのかということでした。 しかし、神が準備された救いの業が、ユダひとりの動向によって左右されるとは考えられません。 ユダの裏切りも、他の弟子たちの裏切りも、またイスラエルの人たち、ローマ総督の犯した過ちも、神の前には大差などないでしょう。 神の前に胸を張って申し開きをできる人などひとりもいないでしょう。 ユダは破滅に至り、自分たちは同じ過ちを犯したにもかかわらず赦され、残されている。 そこに「神の厳しさと慈しみ」を受け止めたのでしょう。 神はすべての人の弱さや不従順や過ちに対して、憐れんでくださっています。 弟子たちは、その神の憐れみの大きさに気づいて、イエスの歩まれた生涯のお姿と、語られたお言葉を思い起こしたのでしょう。 ユダが犯した過ちは、そこに集まるひとりひとりにも陥る過ちではなかったのか。 新しい神の民を起こすためにイエスが選んだ十二使徒のひとりの欠けは群れ全体の欠けであると痛みを憶えたのでしょう。 イエスが約束してくださった聖霊を群れ全体が授かるようにと、互いに祈り合わなければならないと、一同がひとつの塊となって祈らざるを得なかったのでしょう。 イエスの業と福音を引き継いでいく者は、イエスとともに生きる、イエスの命じられたところにひとつの塊となって祈り合う群れが担うと言っています。



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