秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「神に向かって献げる」 マタイによる福音書25章31~40節

2019-05-19

 これからご自身の最後になるだろうその時、罪を犯した者として処罰され、殺されようとしておられる時、イエスは弟子たちに、「わたしは、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分ける。」と言われたのです。 羊飼いは、羊も山羊もそれぞれの違いについて知り尽くしています。 だからこそ、連れて帰る時にはより分けてまとめて連れ帰ったのでしょう。 普段のありふれた生活の光景を用いて、終わりの日にそれぞれにふさわしく連れ帰るご自身の姿を、羊飼いの姿に譬えられたのではないでしょうか。 その違いが何であったのかというよりは、より分けるその理由が普段のありふれた生活の場にあるということを示しています。 
 より分けられた右側に置かれた人々にイエスは言います。 「わたしが飢えていたときに食べさせてくれた。 わたしがのどが渇いていたときに飲ませてくれた。 わたしが旅をしていたときに宿を貸してくれた。・・・・」 イエスの言われる理由のどれもこれも、私たちの日常に起こっている些細な出来事ばかりです。 しかし、その重大な違いは、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのです。」と言われていることです。 あなたがたは、このありふれた生活の中で最も小さい者の一人の姿に注がれる「イエスの愛」を見出した者である。 この小さな日常生活の繰り返しの中にも、イエスの愛が働いている、語りかけられている、注がれ続けている、そのことに気づいたからだとイエスは言っておられるのです。 ここに譬えられているような小さな行いをしなさいと言っておられるのではない。 自分たちの謙遜や博愛のためでもない。 イエスによって現された神の愛に気づいて、それに応えたからだ。 このイエスによって現された神の愛に応える「生活の中にある私たちの信仰と祈り」が、そのより分けられる理由であると譬えておられるのです。 イエスは、「わたしにしてくれたからだ」と言います。 もし、私たちがイエスの姿を見出したなら、あるいはイエスの愛が注がれていることに気づいたなら、その愛に喜んで感謝して応えていくでしょう。 イエスの姿を仰いでしたことであるから、その人に対してしたことではないので、「自分がそのようなことをしたでしょうか」と尋ねるぐらいに覚えていないでしょう。 しかし、イエスを仰がず、人を見て人に対して行ったことであるなら、ささいなことでも覚えているでしょう。 ひょっとしたら、「恩を徒で返すのですか」と却って見返りを求めるかもしれない。 イエスは、「自分に命じられたことをみな果たしたなら、しなければならないことを神に向かってしただけですと言いなさい。」(ルカ17:10)と言われています。 イエスがこの譬えで言われていることは、信仰によって神のみ心に応えていくこと、これはたとえわずかな小さなことであっても、神に向かって献げた「あなたの信仰と祈り」であると言われているのでしょう。 イエスはこの神に向かって「信仰と祈り」を献げた人々を、「わたしを受け入れる人」(10:40)と言っています。 「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は必ず報いを受ける。」(10:42)と言われたのです。 「天地創造の時から用意されている国を受け継ぎなさい。 神の国を受け継ぎなさい。」と、とてつもない大きな報いがあるとイエスは語るのです。 私たちの姿がどのようなものであるかに関係なく、ただ「最も小さい者の一人」にイエスの愛が注がれていることに気づいて、イエスが愛しておられる人を愛する「信仰と祈り」をイエスは喜んでくださるのです。 



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