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「自分の体を献げなさい」 ローマの信徒への手紙12章1~8節

2019-04-28

 パウロは「こういうわけで」と、神の救いの恵みを受け取ることのできた私たちがどのように歩んでいくのか、どのような生活を送っていくのかをこの手紙で書き始めています。 パウロが最初に勧めていることは、「神の憐れみ」、「神の恵み」に応えるということです。 この「憐れみ、恵み」は、受ける側の資格であるとか、価値であるとか、働きであるとかに一切無関係です。 だからこそ、「憐れみ、恵み」としか言いようがないものなのです。 そして、「自分の体を、献げなさい」とパウロは言うのです。 当時のローマの世界を覆っていた思想は、体こそ罪を生み出す、卑しむべきものである。 汚れているものである。 体は滅ぶけれども、魂は残る。 これが、ローマの人々に刷り込まれている思いです。 パウロはそのような常識にお構いなく、その卑しむべき、汚れているとみられていたその体を、いけにえとして神に献げなさいと勧めているのです。 その当時としては、驚くべき勧めです。 そのような卑しいもの、汚れたものと思われていた「体」は、神に喜ばれる筈がないと思われていたに違いない。 パウロはそれでも敢えて、「自分の体を、神に献げなさい」と言うのです。
 私たちの人格は、この体と一体です。 痛みや苦しみも味わう、喜びや感謝をも感じ取ることのできる体をともなった存在です。 私たちの信仰は、哲学でも観念でもない。 痛いと感じ、つらいと感じ、喜んだり、驚いたりする、その体をともなった体験です。 イエスはこのような私たちと同じ体を、この地上で担ってくださったのです。 このイエスの体と結び合わされることによって、「神に与えられた恵み」に、自分の体をもって応えることをパウロは勧めているのです。 この神の恵みに応えて自分の身を献げるという「献身」は、神の恵みに応えて自分の生活のありのまま神の前に差し出すことです。 一部だけ差し出すわけにはいかない、この自分の体すべてをありのまま神の前に持ち運んで差し出すことです。 これこそ、「私たちのなすべき礼拝である。」 「神に喜ばれる、神の御心にかなった神のものとなる礼拝である。」 「生きた私たちの体を差し出すことである。」とパウロは言うのです。 そして、自分たちのなすべき礼拝は、特別な場所で、特別な儀式で、特別ないけにえを献げるものではない。 イエスは、「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。 今がその時である。」と言われました。 イエスは形式的な祭儀も、特別な神殿も終わりにされました。 「自分の体を献げる」という、生きた日常の生活の姿をありのまま献げるという私たちの「霊と真理をもって」行う礼拝こそが、神に喜ばれる、神のものである礼拝であると言うのです。 なぜなら、そこに神の働きが起こるからです。 神との交わりを持ち続けるなら、私たちの体もまた神のものとなるのです。 パウロは、「自分を変えていただきなさい」と表現します。 この世に「倣ってはならない、調子を合わせてはならない、妥協してはならない」と警告しているのです。 自分の身をありのまま神の働きに差し出すこと、委ねることの結果、「何が神の御心であるのかわきまえ知るようになる。 何が善いことであるのかわきまえ知るようになる。 神に喜ばれるものになる。 神に属するものになる。」と言うのです。 神ご自身が自ら霊となって宿るためにふさわしく、私たちをつくり変えてくださるのです。 そのために、イエスという尊い代価が支払われたのです。 だから、喜んで自分の体を献げて変えていただきなさいとパウロは言うのです。 神の恵みに応えて、ありのままに、身を差し出すところには、この神の家族となる「霊的な交わり」と、神のものであることをわきまえ知ることができるようになる「変えられた体」、「それぞれに与えられた異なった賜物」がつくり上げられるのです。



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