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「内なる人」 エフェソの信徒への手紙3章14節~19節

2018-10-28

 パウロは、この世の力に取り囲まれているエフェソにいる少数のキリスト者に、「聖なる者たち」、「キリスト・イエスを信じる人たち」と呼びかけます。 「あなたがたは、前もって神に選ばれてこの世と区別されて、エフェソに置かれて用いられている存在である。 これは、神のみ心による。 時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが頭であるキリストのもとにひとつにまとめられる。 あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、キリストによりしっかりと組み合わされる神の家族となる。 キリストに対する信仰と知識において一つのものとなる。」と、そのための「とりなしの祈り」をパウロがささげているのです。 他の手紙でパウロは、「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、私たちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」(コリント二4:16)と語っています。 パウロの言う「内なる人」とは、「外なる人」から向きを変えて、根底から新しくされた人、「神によって選ばれて、区別されて、聖なるものとされた人」、「キリスト・イエスを信じるようになった人」、「神に属する者として導かれた人」のことです。 パウロは、「外なる人」が悪くて、「内なる人」がよいと言っているのではありません。 どちらも、私たち人間そのものでしょう。 「内なる人」とは、神の霊に導かれて、信仰を与えられて、その「外なる人」をささげて主に従う人のことでしょう。 パウロは、「神の豊かさによって、その霊と力によって、その内なる人を強めてください。」と祈ります。 「神の満ち溢れる豊かさに与るように、満たされるように、神の霊と力によって強められるように」と祈っているのです。 私たちの「信仰」も「祈り」も、すべて神から授けられたものです。 ここまでたどり着くことのできたこの道もまた、神が備えてくださった道です。 ですから回り道でも、通らなくてもよかった道ではありません。 この道を通らなければ与えられることのなかった「信仰」、「祈り」を得るためです。 人それぞれ「信仰」も「祈り」も違うでしょう。 しかし、その源はすべて一緒です。 神の恵みの豊かさです。 そこからこぼれ落ちる「霊」の働き、「霊」の力によって「強められなさい」とパウロは祈っているのです。 
更に、「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせるように、キリストを宿すように、愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者となるように強めてください。」と祈るのです。 エフェソの人々の信仰の隙間に上手に入り込んでいるこの世の力と働きを、パウロは見ているのです。 彼らが気づいていない隙間を埋め尽くすまでに、彼らの内にキリストが宿るまでにキリストの愛に支配されて、キリストが留まるように」と、渾身の祈りをもって獄中からパウロは祈るのです。 最後にパウロは、「そのキリストの愛をあなたがたが知るように、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解するように。」と祈ります。 「キリストの愛」がどこまで広がっているのか、その極みを知る者はいないほどの「広さ」です。 「人の知識をはるかに超えたもの」とパウロは言います。 私たちはせっかちに、結果や報いを求めますが、「キリストの愛」は種を蒔いて、刈り入れるまでじっと待つ「長さ」をもっています。 キリストの十字架は、この地上の世界に生きる者のどん底の状態でしょう。 人々から侮られ、嘲られ、勝手に作られた罪にらく印を押され、捨てられた状態です。 この低さにまで、私たちの代わりに落ちてくださって、神の愛という燦然と輝く高さにまで引き上げられた「低さと高さ」をもっています。 「深さ」もまた同じです。 自分の弱さや過ちに気づけば気づくほど、「キリストの愛」を知ります。 「キリストの愛」は、罪深さの「深さ」に応えて働くのです。 この「キリストの愛」をともに味わいつつ、キリストを仰ぎつつ歩んで参りましょう。



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