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「賛美する者に変えられた群衆」 マルコによる福音書2章1節~12節

2018-09-09

 イエスがおられるところには、大勢の群衆が押しかけて来ていました。 「家の戸の辺りまですきまもないほどであった」と言います。 この熱気あふれるところに、「四人の男が中風の人を運んで来た。 その家の屋根をはがし、そこに穴をあけて、その病人の寝ている床をそのまま、イエスがおられるところを目掛けてつり降ろした。」と言うのです。 「中風の人」とは、「麻痺している人」という意味合いです。 当時のユダヤ社会では、残念ながら病気はその人の罪の結果だと思われていました。 病人は、罪人として社会から締め出されていたのです。 この病人は、「起き上がることもできない、社会から取り残された人」ということになるでしょう。 雨季や乾季があって屋根のふき替えができるように簡易な屋根であったとはいえ、四人の男たちのとった行動は乱暴でしょう。 目的のためなら手段を選ばない非難されるべき行動でしょう。 しかし、イエスは彼らの思いや行動がどうであったのかを説明することなく、「その人たちの信仰を見た。 そして、その病人に『あなたの罪は赦される』と言われた。」のです。 これはいったい、どういうことでしょうか。
 病人は自分の病いを癒されたい。 四人の男たちはこの病人をどうしても癒してほしいと思った。 その切迫した思いが周囲の迷惑を考えもせず、その場の秩序も無視をして、家の屋根を壊してまでイエスのみもとにこの病人を届けたのです。 これが信仰であると言えるのでしょうか。 しかし、イエスは、この信仰ともとれないものを「信仰」として拾い上げました。 そして、その病人に「あなたの罪は赦される。 起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」と言われました。 すると、すぐに床を担いで、その場にいた群衆が見ている前で出て行ったのです。 とんでもない方法で目の前に現れた人たちの信仰とも思えない祈りをくみ上げて、病いというこの世に縛られているものからの解放と、この世の社会への復帰を同時に、この病人に宣言されたのではないでしょうか。 私たちは自分のからだのことには一生懸命です。 どちらの医者がよいとか、この薬がきくとかとても熱心です。 しかし、神との関係が今どうなっているのか、神の前に生きているのか死んでいるのかには、私たちは無頓着です。 イエスは逆であると言います。 病いは癒されても、いずれまたかかってしまう。 神のかたちに造られたにもかかわらず、神を知ろうとせず、神に頼らないで自分勝手に生きていこうとした人が回復されなければならない。 神のもとを離れて、生きる意味を失っている人が完全に癒されるためには、神に赦していただかなければならない。 この「神のもとに戻る」ことを「罪が赦される」と称して、「病いを癒す」ことの前にイエスは先ず宣言されたのです。 
 私たちに信仰があるとかないとか、また私たちの信仰が薄いとか厚いとか、私たちが決めることではありません。 イエスが認めてくださるものです。 イエスは、信仰と言えないようなものでも拾い上げてくださるのです。 彼らは、「罪が赦される」とはどういうことなのか、それが病いの癒しにどうつながるのかさえ分かっていないでしょう。 しかし、彼らは、イエスなら癒してくださると思い、み言葉を求め触れようとしました。 そのみ言葉に聞いて、その通りに従いました。 意味が分からなくても、彼らはイエスのみ言葉を受け入れているではありませんか。 彼らの姿を通して、群衆が今まで考えてもみなかった「神のもとへ帰る」という「罪が赦される」という神の癒しをイエスは語られたのです。 この出来事を目の当たりにした群衆は、「皆驚き、『このようなことは、今まで見たことがない。』と言って、神を賛美した」と書かれています。 助けられた病人が用いられて、また、助けられた病人を運んできた四人の人たちが用いられて、この群衆を「神を賛美する者」へと、イエスご自身が働かれて変えられたのです。



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