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「必要な弱く見える部分」 コリントの信徒への手紙一12章12~26節

2018-07-29

 18節に、「そこで神は、ご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。」とあります。 様々な部分に違いがあるのは、神の望みである。 神のみ心のままにされたことである。 その違いを乗り越えて、神はひとつに結びつけてくださっていると言うのです。 「だから、多くの部分があっても、ひとつの体なのです。」とパウロは宣言しています。 ところが、この神によって造られたそれぞれの部分が、なぜか一つの体であることを忘れ、神のみ心を横に置いて、自分たちの主張や思いを果たすために、自らを神の座につかせ、ひとつの部分にすぎない存在が全体である「体」を支配しようとする。 パウロはこのことを警告して、「目が手に向かって、お前は要らないと言えないでしょう。」と言うのです。 私たちは体の中でほかよりも格好が悪いと思われる部分を見えないように覆ってしまいます。 その見栄えを少しでもよく見えるように、もっと恰好よくしようと懸命に力を注ぎます。 しかし、神はそうではない、「ほかよりも弱く見える部分が却って必要である。」 むしろ、神は、「見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てた。」と言われるのです。
 この手紙を書き送っているパウロは、「わたしの肉体には一つのとげが与えられた。」と告白しています。 聖書は、このパウロが言う「とげ」とはいったい何であったのかは何も語りません。 持病であったのか、度重なる投獄による傷の痛みであったのか、激しく対立している人々の妨害であったのかは分かりません。 「このとげから離れ去らせてくださいと三度も祈った」と言います。 その繰り返し祈った「祈り」のなかでパウロに与えられたイエスのみ言葉が、「わたしの恵みはあなたに十分である。 力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」(コリンント二12:9)というみ言葉でした。 パウロの言う「とげ」とは、自分自身の弱さでしょう。 貧しさでしょう。 乏しさでしょう。 パウロが自分のために、健康や平安や豊かさを何度も繰り返し主に願い求めたとは到底思えません。 この手紙のあて先であるコリントの教会を取り戻すため、この「肉体」の「とげ」、「弱さ」を克服するために、パウロは「とげ」が取り除かれることを心から主に願い求めたのです。 その懸命の祈りに対する主イエスの答えが、「わたしの恵みはあなたに十分である。 力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」というみ言葉であったのです。 パウロの祈りは聞かれたのです。 イエス・キリストの十字架の力は、「弱さ」を認めてそれを神に委ねるところに宿ります。 本当の強さ、豊かさは、弱さ、貧しさのところにこそ働きます。 パウロの「とげ」、その「弱さ」は決して取り除かれなかったけれども、そこにこそ神の恵みが十分に注がれ、発揮されたことを、パウロは体験を通して思い知ったのです。
 自分が弱い者であるということ、このことに気づく時初めて、私たちは神の憐れみ、神の恵みが注がれることを知るようになります。 自身の弱さ、足りなさを知る者が、神の憐れみを知るようになります。 神の恵みがその弱さにこそ、その乏しさにこそ十分に注がれることを知るのです。 「神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられることによって、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合うようになる。 ひとつの部分が苦しめばすべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶようになる。」のです。 私たちが気づいていない「痛み」や「喜び」を、私たちの教会、幼稚園に新しく招かれた人たちによって知らされ、教えられるのです。 神は、一つの部分の痛み、喜びが、すべての部分に拡がっていくように、神はその部分をむしろ引き立たせて、イエス・キリストにつながる体をしっかりと結び合わせるのです。 私たちは、この神が起こされる出来事の証人となるのです。



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