秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「心に注がれる神の愛」 ローマの信徒への手紙5章1~11節

2018-07-08

 パウロは、「わたしたちは信仰によって、またイエス・キリストによって、神との間に平和を得ている。」 「わたしたちは、イエス・キリストのお蔭で、信仰によって今の恵みに導き入れられている。」と言います。 「平和」と訳されているこの言葉(シャローム)は、戦争をしていないとか、争いをしていないとか、安心や安全という個人的な心の状態を示したものではありません。 神の恵みと祝福に満たされている状態、「キリストを通して神と和解させていただいた今」の状態を、パウロは喜びをもって語っている言葉です。 私たちが今味わっているこの不思議さと驚きと喜びを、理路整然と語ることができません。 そのもどかしさを憶えます。 しかし、パウロは、「信仰によって、イエス・キリストによって満たされている」と言います。 これは、私たちの中にあるものではありません。 神から与えられるものです。 「わたしたちに与えられる聖霊によって満たされている」とパウロは言います。 神のもとからくる霊だけが、このことを示すことができる。 その理由は、「この神との間の平和、今の恵みは、わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」とパウロは告白しているのです。
 パウロは、私たちが「神の愛」を知っているから、「神の愛」を理解しているから、「神との間の平和、今の恵み」に至っている、満たされているとは言っていないのです。 「神の愛」が、私たちの心に注がれているからだと言うのです。 私たちが、その「神の愛」に気づいているかどうかです。 パウロはいったいどこから、そのような確信を得たのでしょうか。 自分自身の体験です。 定められた戒めを徹底的に守ることによって、神の前に自らの正しさを示そうとしたかつてのパウロでした。 戒めを守ることのできない人々を激しく排斥したパウロでした。 まさに、神に敵対する者、神から遠く離れていた者でした。 そのパウロが出会ったものは、イエス・キリストの「十字架の赦し」でした。 自らが神となろうとして神に背いた者は、神の赦しがなければ神のもとに帰ることができないでしょう。 そのための「和解」を、神が一方的に準備をしてくださっていたことにパウロは気づいたのです。 赦される資格のない者のために準備された和解の恵みが、イエス・キリストの十字架でした。 パウロは、この敵対する自分のような者にまでもイエス・キリストは死んでくださったことを知ったのです。 それが、私たちに示された無条件の「神の愛」であることを、聖霊によって知ったのです。 そこから、パウロは新しく造り変えられました。 このことを、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。」(コリント二5:17)と表現しています。 このことを知ったのは、偶然でもなければ自分の努力でもない。「信仰によって」、「イエス・キリストによって」、「わたしたちに与えられている聖霊によって」、「神の愛がわたしたちの心の中に注がれていることを知らされたからです。」と告白しています。 ひとりの人物を根底から、突然、決定的に変えてしまうほどの「神の愛」です。 不信心な者のためにも死んでくださった、神のもとを離れてしまった敵でさえあった者のためにも死んでくださった「十字架に示された具体的な神の愛」です。 その「神の愛」が、信じている者のそれぞれの生涯を支えてくださっている。 それが、「神との間に得ている平和である。 今の恵みである。」と語っているのです。 この神の恵みには、苦難もまた含まれるとパウロは言います。 「苦難は不平を生み、不平は恨みを生み、恨みは絶望を生み、絶望はいやされることがない。」 これが世の常でしょう。 しかし、パウロは、「苦難を喜びとします。 苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む。」と言います。 それは、「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているから」と言います。 その源である神ご自身を、パウロは「誇りとします。 喜びとします。」と賛美しているのです。



バナー
バナー

お知らせ

過去の記事



〒010-0917
秋田市泉中央3−2−1
TEL/FAX 018-862-5357(教会)
TEL 018-863-4228(幼稚園)
牧師 村上悦二
協力牧師 渡部元