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「与えられる礼服」 マタイによる福音書22章1~14節

2018-06-24

 イエスは、「神の国」は「ある王がその王子のために催す婚宴」に似ていると言います。 食事の用意がすっかり整った食卓である。 「牛や肥えた家畜が屠られて料理され、ただ招かれた客を待っているだけの食卓」であると言います。 「神の国」には、招いておられる「王」がおられる。 すべての準備をして、家来を遣わして招いておられるのは「王」自身である。 招かれている者の手を一切借りていない王の準備の業である。 その「王」が、自分の息子が嫁を迎えることを心より喜んでおられる。 招かれている者はそれに応えて、ただ準備された食卓につくために出かけて行くことだけなのだと、イエスはこの譬えをもって「神の国」を語っておられるのです。 
 ところが、招かれた人たちはその招きを無視した。 畑に出かけて行ってしまった。 商売に出かけて行ってしまった。もっとひどいことに、招くために遣わされた王の家来を捕まえて乱暴し、殺してしまったというのです。 王は、「婚宴の用意はできているが、招いておいた人々はふさわしくなかった。」と語っています。 この「王」とは父なる神です。 「王子」とは、神の子イエス・キリストです。 「招いておいた人々」とは選ばれた民イスラエルです。 「送り出された家来たち」とは神のもとから遣わされて行った預言者たちです。 旧約聖書に語られた神の救いの歴史が語られています。 しかし、この譬えには新約聖書のキリストの福音も語られています。 婚宴の用意はできているが、招いておいた人々はふさわしくなかった。」と厳しい言葉を発するが、それでも招くことを止めない父なる神のみ心が語られています。 招きに応じるようにと強い願いが語られています。 「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。」 見かけた者は誰でも、善人も悪人も皆です。 招きから漏れている、招きにふさわしくないと思われた人たち皆です。 このマタイの譬えには、ルカには記されていない言葉があります。 招かれた客の中に、「婚礼の礼服を着ていない者が一人いた」という言葉です。 その客に、父なる神は「友よ」と語りかけています。 「どうして礼服を着ないでここに入ってきたのか」と神が尋ねているが、その問いに「黙っていた」というのです。 この礼服とは、「王が用意した礼服」です。 神しか用意することのできない服を着なさいと言っているのです。 私たちは自分が選んで、自分がふさわしいと気に入った自分勝手な姿で、自分が理想とする姿を取って、神の前に出ようとするでしょう。 それらは「自前の服」です。 たとえ、用意された服が気に入らなくても、自分に合っていないと思われても、神はご自身が用意した服を着て出てきてほしいのです。 なぜなら、その「神が用意された服」こそが、神の前に出る唯一の服であるからです。 「今や、救いは近づいている。 夜は更け、日は近づいた。 主イエス・キリストを身にまといなさい。」(ローマ13:11) 「バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているのです。」(ガラテヤ3:27) 「周囲は救いの衣をわたしに着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。」(イザヤ61:10)と聖書は言います。 みすぼらしいものであるかもしれない。 着ることが苦痛であるかもしれない。 しかし、この服こそ、私たちが自分で用意することのできない、神の前に出るにふさわしい晴れ着です。 この譬えは、神の招きに対する私たちの備えを語っています。 「さあ、おいでください」と招きかける神の使いに対する私たちの備えです。 断るのでしょうか。 無視するのでしょうか。 招きそのものを壊してしまうのでしょうか。 黙ってしまうのでしょうか。 招かれているのは今です。 そのような時に、いつでもできることを先にして、招きにためらい、後回しにするのでしょうか。 この世のものに心を奪われても、自前の生き方に縛られてもならない。 私たちは神ご自身が用意された服をまとって、招かれた席につくことだけです。



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