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「み言葉のために働いた人々」 ルカによる福音書18章9~14節

2018-04-29

 イエスは、二人の人物の姿を譬えをもって話されたと書かれています。 ひとりは「ファリサイ派の人」です。 「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人」と表現されています。 「自分が正しい」という確信は、一朝一夕にできあがったものではないでしょう。 長い間に築き上げられ、積み重ねられた自信でしょう。 人の指摘によってすぐ手放すような類のものではないでしょう。 自分の立場、存在そのものを守り通してきた大事な拠り所です。 余程のことがないかぎり、自ら放棄することは考えられないしろものです。 神に頼る必要を感じることもなく、頼ろうともしない、自分だけを頼りに歩んでいる人です。 人と比べて満足し、うぬぼれもし、あるいは卑下もし、妬みもするのです。 敬虔なユダヤ教徒は、祈るために週2回の断食を欠かしません。 農作物の全収穫の十分の一を必ずささげます。 律法の戒めに書かれている以上の行いをします。 それらすべてを兼ね備えているのは私であると自認をしていた人です。 一方、「徴税人」は、律法の戒めを知らないし、守ろうともしないし、穢れた仕事についている人、罪人であると当時の社会では言われても仕方のない人です。 自らどうすることもできない、神の憐れみにすがる以外に回復することのできない人です。 イエスはこの二人の違いを、神殿に上って「祈る姿」、「祈る言葉」によってくっきりと示します。 「ファリサイ派の人」は、神殿にいる人々の前に立って堂々と祈ります。 しかし、イエスは、人々が耳で聞くような「祈り」を聞いておられない。 人前で祈る「ファリサ派の人」の心の中で祈る「祈り」を聞いておられるのです。 「神さま、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、徴税人のような者でないことを感謝します。 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」と、その心の中で祈っている祈りです。 人に聞かせることのできない自分を誇る「本心の祈り」でしょう。 ところが、「徴税人」の祈りは違います。 神殿の人前ではなく、「遠く離れた」ところで隠れて祈る「祈り」でした。 目を天に上げることもできない、目を落として、伏して祈る「祈り」でした。 深い悲しみや後悔や絶望の表れでしょう。 とても人に見せることのできない「姿」でしょう。 人に聞かせることのできない恥ずかしい「祈り」でしょう。 最後に振り絞って出てきた祈りの言葉が、「神さま、罪人のわたしを憐れんでください。」でした。 「どうか、このわたしを赦してください。 神さまの赦しがなければ存在することのできなくなってしまっている。」という告白の「祈り」です。 イエスはこの二人の祈りを語り終えて、最後に「はっきり言っておくが、義とされて家に帰ったのは、徴税人である。」と言われたのです。
 「神に義とされて」とは、「徴税人」の必死の祈りが、彼を「義とした、正しい者にした」ということではありません。 彼がどのような状況にあったとしても、「神が正しい者として憐れみによって認めてくださった、取り扱ってくださった」ということです。 神の義は神の憐れみによって与えられるものです。 何回祈ったとか、断食をしたとかということではない。 「弱さ、貧しさ、破れ」をどうすることもできないこの私を繕ってください、「憐れんでください」と厚かましく祈り求める人。 神に委ねるしか、神の憐れみにすがるしかない人、隠れて遠く離れたところで、目を伏して、胸をたたきながら悔い改めて祈るしかない人こそが、神の国に真っ先に招かれるという神の憐れみをイエスは語ったのです。 ルカによる福音書は、聖書は読む人や解釈する人を求めているのではない。 このみ言葉に生きた人、み言葉にかけて立ち戻った人、み言葉に仕えた人、み言葉のために働いた人、「み言葉の証人」を求めています。 私たちの「誇り」は断食や祈りや献金ではありません。 すべてのことを果たす神が私たちと共にいてくださることです。



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