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「最後の晩餐の主イエス」 マルコによる福音書14章12~21節

2017-08-27

 時は「過越の小羊を屠る日」でした。 ユダヤの人々にとって、奴隷の身であったエジプトから救い出されるという故事を記念として、大事にしてきた祭りの日でした。 弟子たちが「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意しましょうか。」と尋ねる前にすでに、イエスは先を見越して周到に準備されていました。 この時のイエスの身辺には、危険が迫っていました。 ローマ兵士たち、ユダヤの祭司長たちに気づかれないよう、とある二階の広間に準備されていたのです。 イエスはその食事を、「わたしの過越の食事」、私がこの地上で弟子たちとともにする「最後の食事」、「準備しておきなさい」とイエスが言われて招いた食事」であったのです。 それほどまでに大切に思われたその食事で言われたイエスの言葉が、「あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」というものでした。 こんな犯人探しのようなことを言うために、イエスはわざわざこの食事を準備したのでしょうか。 
 この時すでに、ユダは、「イエスを引き渡す機会をねらっていた」と言います。 どのようにしてイエスを捕らえようかと算段にあぐねていた祭司長たちは、イエスの十二弟子の一人ユダが駆け込んで来たことを喜んだでしょうね。 ユダは貧しい人たちを救い、自分たちの国を救い出して復興を成し遂げてくださるに違いないとイエスを見ていたのでしょう。 自分の願いを叶えてくれるお方ではないと分かってくれば、人は簡単に捨ててしまう。 ユダだけではない、他の弟子たちも「まさかわたしのことではと代わる代わる言い始めた」とあります。 この時の様子が、レオナルドダヴィンチの絵画「最後の晩餐」の場面です。 確かに、イエスを直接祭司長たちに引き渡したのは、ユダであったかもしれない。 しかし、他の弟子たちもまた皆イエスを見捨てて逃げてしまったのです。 ローマの兵士たちもユダヤの人々も自分たちの都合により、イエスを十字架に架けてしまったのです。 イエスはそれらすべての者を含めて、この最後の晩餐の「過越の小羊」の姿をご自身の姿になぞらえて語ったのです。 「わたしは、裂かれたパンである。 わたしは、流された血である。」 自分の願いではなく、理不尽な暴力によって、死に価する罪を犯していないにも関わらず、無理やり「裂かれたからだ」である。 敵意と憎悪によって「流された血」であると言われたのです。 イエスはこの「裂かれたからだ」と「流された血」が、このイエスのもとを離れて行こうとしているユダにも、今、食事をともにしているがこれからイエスを見捨てて逃げて行こうとする他の十二弟子たちにも、また自らの身を守るためだけに動いているローマやユダヤの人々にもすべての者に対して、この最後の主の晩餐にイエスは招いておられるのではないでしょうか。 聖書に預言された「屠り場に引かれる小羊のように」、また「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と表現されてお生まれになった通りのイエスのご生涯でした。 この最後の「主の晩餐」は、すべての罪人が招かれる食事です。 その食事の主人は、十字架のうえでからだを裂かれたイエス、血を流されたイエスです。 取り返しのつかない過ちを犯してしまった私たちを、その絶望と孤独の中から贖い出して、すべて赦して祝福へと招いてくださっているのです。 ペトロは泣いて、悔いて、恥ずかしくとも向きを変えて、イエスのもとへ再び帰ってきたのです。 イエスの十字架の赦しを受け入れたのです。 ユダの本当の過ちは、イエスを裏切ったことではありません。 ユダを赦して、じっと待っておられるイエスを拒んだことです。 再びイエスの前に進み出ることに躊躇し、ついに戻らなかったことです。 十字架のうえのイエスというささげものは、眺めて飾っておくものではない。 「取って食べなさい。 飲んで味わいなさい。」と、自ら体験し、味わうものとしてささげられたのです。 私たちは自分自身のためにも、隣人のためにも、このイエスの十字架の死を空しくしてはならないのです。



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