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「教会の旗印」 ガラテヤの信徒への手紙 3章1~2節、13~14節

2017-06-25

 私たちの教会の群れの原形は、奴隷の身にあったイスラエルの人々がエジプトから脱出した、旧約聖書に書かれている荒野を旅する姿であると言われています。 壮年男子だけで60万人、そのほか種々雑多な人々が加わったと言いますから、おびただしい数の群れであったのでしょう。 これほど大勢の人々を導いたのは、それぞれ「家系の印を描いた旗」であった。 彼らはその旗を宿営に掲げ、その旗を先頭にして群れごとに行進したと言います。 今日の私たちの群れは、何を旗印に掲げているのでしょうか。 イエスは、シモン・ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた、その信仰告白のうえに教会を建てると言われました。 イエスがこの地上に遣わされたのは、私たちを神のもとに取り戻すためでした。 一人一人の罪が赦され、一人残らず神との交わりを取り戻すためでした。 そのための十字架でした。 この「十字架につけられたイエス・キリスト」という旗のもとに集められたのが教会の群れでした。 この教会の旗印である「十字架」とはいったい何でしょうか。 ローマにとっては、死刑の道具でした。 ユダヤにとっては、「木にかけられた者は、神に呪われたもの」と旧約聖書に書いてあるように、神の呪いでした。 イエスご自身にとっても、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶまでに、絶望の死を意味するものでした。 この時には、何も分からなかった弟子たちが、聖霊の働きによって後に知らされたのです。 この絶望の死は、自分たちが味わうはずのものだった。 神との断絶の前に、主イエスは立ち続けてくださって、それを受けるべきであった自分たちに代わって味わってくださった。神の呪いとしか見えていなかった十字架の姿が希望に変えられたのでした。
 ガラテヤの教会の人々は、パウロが宣教したころには、この主イエス・キリストの十字架によって救われた喜びと賛美に満ち溢れていました。 ところが、エルサレムから派遣された教師たちによって、「律法を守らなければ本当の救いはない」と教えられて混乱が生じていたのです。 律法は本来、神のみ心を示したものでした。 しかし、分かっていても守ることができない、守る力のない私たちにとっては、到底守ることのできない戒めでした。 その私たちに、イエス・キリストの十字架によって贖われ、救い出されなければならない存在であることに気づかせるものでした。 パウロは訴えています。 「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。」 十字架のうえでイエスが「わたしたちのために死んでくださった」と言うところを、パウロは「わたしたちのために呪いとなってくださった」と言います。 神との交わりから引き離そうとする者との戦いから、主イエスが逃げることなく立ち続けてくださったその理由を、パウロは二つ述べています。 ひとつは、「アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶため」であったと言います。 「キリストにおいて」とは、ユダヤ人も異邦人も区別なく、だれひとり例外なくキリストに結ばれることによってということです。 一人残らず、神が約束されたことであるからとだけ信じて従ったアブラハムの信仰に与えられた神の約束、祝福に、与かることができると言っているのです。 もうひとつは、「わたしたちが、約束された霊を信仰によって受けるため」であったと言います。 主イエスは十字架の上で、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られました。 私たちの諦めと絶望のところにある「木に架けられた呪いの場所」で、その呪いが祝福に変えられた、成し遂げられたと宣言されてイエスは息を引き取られたのです。 成し遂げられたのであるからこそ、神の福音です。 神の約束です。 その証しに今もなお、聖霊を私たちに遣わし、力を与え、慰めを与え、励ましを与えてくださっているのです。 私たちはその霊を祈りによって受け取るだけなのです。 



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