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「地の塩、世の光である」 マタイによる福音書5章13~16節

2017-01-15

 イエスは、ご自身の後をついてくるおびただしい数の群衆をご覧になって、山に登られました。 そこで腰を下ろして、そば近くに寄って来た弟子たちに向けて語られました。 「心の貧しい人は幸いである。 天の国はその人たちのものである。 悲しむ人々は幸いである。 その人たちは慰められる。 ・・・義のために迫害される人々は幸いである。 天の国はその人たちのものである。」と、決してこの世において「幸い」を受けているとは思えないような人々こそ「幸い」を受けている。 神の国はその人たちのものであると、先ず神の祝福を語ったのです。 このようにイエスに呼びかけられたのは、イエスについて来た弟子たちです。 イエスによって選ばれ、召されて、従って来た弟子たちです。 そしてこれから、イエスに務めを与えられて、遣わされようとしている弟子たちです。 そうした弟子たちに最初に語られた「幸い」の直後に、イエスは「あなたがたは地の塩である。 世の光である。」と語られたのです。 当時の「塩」は高価なものであったようです。 食物に味をつける、腐敗を防ぐ、汚れを清める良いものと古くから考えられていたのです。 イエスは、神の国の祝福がすでにこの世に到来したにもかかわらず、心を頑なにしてこの「幸い、恵み」を受け取ることを拒むイスラエルの民を「塩気を失った塩」と言っておられます。 イエスは、「地」の「塩」で「ある」と言っています。 死んであの世で「塩」になると言っているのではありません。 この地上の困難な中で、頑張って塩気をもつ「塩」になりなさいと言っているのでもありません。 あなたがたは、この神から与えられる「幸い」の中に「ある」者である。 あなたがたがもともと塩味をもっているのではない。 神からの賜物によって初めて塩気を味つけられるものである。 その時が満ちて、今ここに到来したである。 あなたがたイエスに従って来た弟子たちはすでに、この「地の塩である」とイエスは宣言されたのです。 イエスの十字架の哀れな姿を前にして弟子たちはだれ一人例外なく、イエスのもとを離れて行きました。しかし、イエスが死んで葬られた後、イエスの霊が弟子たちのうえに降ってからは、彼らはその賜物を宿して、その恵みをいっぱい受けてイエスと同じ道を歩み出すことができるようになったのです。 イエスこそ、「塩」でありました。 そのイエスを内に宿すことによって、弟子たちは塩気を保つことができたのです。 「わたしは世の光である」と言われたイエスを、内に宿すことによって、その光が輝き出る。 この暗闇にあるからこそ、光は輝きます。 暗闇は光を嫌います。 光が見えないように、私たちの目をくらますのです。 この光はもともと、私たちに「初めに光あれ」と与えられて、「神が光を見て、良しとされた」ものです。 私たちが神を忘れ、神を見失ったことによって失われたものです。 暗闇を漂っている私たちが赦されて、もう一度、希望の光を見出し、取り戻すことができる時が来たと宣言されたのです。 「光のあるところでは、隠れることができない。 ともし火が照らすところでは、すべてを照らし出す。」と言います。 神の国の福音は隠しておくことはできない。 福音自らの命によって、語り始めるのです。 
 父なる神に「幸い、祝福」を受けた者は、もうすでに新しい存在です。 私たちは、私たちを生かしてくださっているお方から離れるなら、祝福として与えられている塩気も、見える光も失ってしまうのです。 イエスが、失われたものが回復されたと言っておられるのに、その恵みを受け取ろうとしないのが私たちです。 イエスは祝福を授けた後に、「あなたがたは地の塩、世の光である。」と宣言されたのです。 このイエスのとりなしによって、そのイエスに従うことによって、そのような存在にさせていただいているのです。 



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