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「隣人になったと思うか」 ルカによる福音書10章25節~37節

2015-11-01

 今の世も、当時のユダヤの世界も同じでした。 律法の専門家である律法学者が、人びとの生活そのものを牛耳っていました。 専門家だけが分かっていればよいという世界です。 その律法学者が、イエスを試そうとして質問しました。 「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」 この質問にイエスは、「律法には何と書いてあるか。 あなたはそれをどう読んでいるか」と尋ねたのです。 さすがに、この律法学者は的確に答えたのです。 するとイエスは、「正しい答えだ。 それを実行しなさい。 そうすれば永遠の命が得られる。」と言われたのです。 イエスは、的確に答えた律法学者をほめたのでしょうか。 神を愛する、隣人を愛するという行いを実行するようにと道徳の教えを説いたのでしょうか。 問題は、この後の律法学者の質問にあります。 「では、わたしの隣人とはだれですか」と尋ねて、自分を正当化しようとしたとあります。 イエスの言うような隣人には、私は愛をささげてきていると主張したかったのでしょう。 その際に語られたイエスのみ言葉が「善いサマリア人の譬え」でした。 「わたしの隣人とは、いったいだれのことですか」という律法学者の問いに、逆に、イエスは「だれが隣人になったと思うか」と律法学者に問うたのです。 
 「追いはぎに襲われた一人の旅人」が出てきます。 服をはぎ取られて、殴りつけられ、半殺しの目にあって、放置されたままになった人物です。 予測もしなかった出来事に遭って、すべてを失い、からだも痛めつけられ、だれも見向きもしない、助けを求めても答える者がいないところに放置された人物です。 イエスは、そこに「祭司」、「レビ人」、「サマリア人」の三人を登場させます。 「祭司」や「レビ人」とは、人目には、立派に神や神殿に仕える人たちを指すのでしょう。 しかし、彼らは、だれも見ていないところでは、苦しみ、痛み、嘆きの中にある同じユダヤ人を見ても、「道の向こう側を通って行った」と言うのです。 しかし、同じようにそこを旅していたサマリア人は、「そばに来ると、その人を憐れに思い、近寄って来て傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろば乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。」 翌日には、その宿屋の主人に銀貨を渡して、「この人を介抱してください。 費用がかかったら、帰りがけに払います。」とまで言ったと言います。 「サマリア人」とは、ユダヤ人たちからは、異教徒たちの風習や宗教に馴染んでしまったがゆえに、交われば汚れるとまで言われ、交わりを拒まれていた人たちでした。 ユダヤ人たちから嫌われ、見下されていた人を、イエスは登場させたのです。 このサマリア人こそが、苦しんでいる、傷ついている、嘆いているユダヤ人の本当の隣人になったと語っているのです。 イエスは、この譬えを語り終えて、この律法学者を、愛を施す側から、愛を受ける側に立たせようとします。 イエスは、自分を変えようとしないで、隣人という相手を選ぼうとした律法学者に、「だれが本当の隣人になったと思うか」と尋ねたのです。 イエスは、サマリア人の姿を通して、隣人を見つめて「憐れに思う」心に揺り動かされた人の姿を語ったのです。 自分を中心に隣人を見るのではなく、助けを求める隣人を見つめる目と、それによって変えられていく人の姿を、イエスは語られたのです。 このサマリア人の姿こそ、十字架の主イエスです。 傷ついているあなたは、わたしの受けた傷によって癒される。 その癒された者が、同じ傷をもつ隣人を癒すことができる。 この十字架の主を仰いで愛する者が、同じように隣人を愛するようになる。 この恵みの世界に、私たちは置かれています。 この神の恵みに突き動かされて、私たちは互いに隣人となる。 この新しい隣人こそ、神の憐れみの担い手であるとこの譬えは語っています。 



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