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「今日、来ている神の国」 ルカによる福音書23章32節~43節

2015-11-08

 イエスの十字架の犯罪名は、ローマ帝国への反乱を扇動したという罪でした。 従って、イエスの十字架のもとには、厳重に警戒し粛々と刑を執行するローマ兵たちがいました。 死刑囚の着ていた衣服を、くじを引いて分け合う人たちでした。 彼らは、イエスの頭の上に「これはユダヤ人の王」と罪状書きを掲げて、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」とイエスを侮辱したのです。 また、「主の名によって来られる方に、祝福があるように」とあれほど歓喜の声を挙げて、イエスをエルサレムに迎え入れた群衆もいます。 今では、手の平を返すように「十字架につけよ」と叫び、まさに十字架につけられようとするイエスをただ立って眺めていた群衆でした。 ユダヤの指導者である議員たちもまた、「他人を救ったのだ。 もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」とあざ笑っています。 十字架にかけられたイエスの最も近くには、イエスと同じ十字架による「死」をともにした二人の人物がいます。 一人はイエスの右に、もう一人はイエスの左に十字架につけられている犯罪人でした。 そこには、「三本の十字架」が立っていたのです。 これらの様々な人たちの姿が入り混じる中で、六時間にもわたるイエスの苦痛の姿がここに語られています。 
 イエスがまさに生きる力を失いかけている、その時です。 「父よ、彼らをお赦しください。 自分が何をしているのか知らないのです」と祈られたのです。 イエスの十字架のもとで、またそのそば近くで繰り広げられている様々な人たちの姿、そのすべてをひっくるめて「父よ、彼らをお赦しください。 自分が何をしているのか知らないのです」と「とりなしの祈り」をイエスはささげられたのです。 これが、「三本の十字架」の処刑の場面です。 イエスをはさんで十字架にかけられている二人の犯罪人は、イエスと同じように手と足を釘づけにされて、ここから逃げ出すことも、隠れることもできません。 もはや、イエスとともに死を待つばかりの最後の時に直面している当事者です。 この力尽きかけているイエスのかすかな「とりなしの祈り」が、二人の犯罪人に別々の反応を引き起こします。 一人の犯罪人は、あのあざ笑った議員たちやローマ兵たちと全く同じように、「お前はメシアではないか。 自分自身と我々を救ってみろ。」と言います。 彼にとって、自分を救うことができない者は、他のだれも救えない愚かな者でした。 彼にとっての救いは、今あるこの苦しみ、束縛から解放されることだけでした。 しかし、もうひとりの犯罪人は、その彼をたしなめています。 この違いはいったい何でしょうか。 法のもとに裁かれていることも、イエスとともに死にゆくことも、イエスが「彼らをお赦しください」という祈りを聞いたことも同じはずです。 一人は、自分すら救えない哀れな人の空しい言葉と聞いた。 しかし、もう一人は、自分に向けられた「とりなしの祈り」と聞いた。 そして、十字架のもとで繰り広げられている姿と同じ「あざ笑い、ののしる自分の姿」を捨てることができた。 この今にも死んでいこうとするイエスに、「私を憐れんでください。 イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」と、イエスとともにいることだけを願うことができたのです。 その時語られたイエスの言葉が、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」という言葉であったのです。 将来ではありません、「今日」という神の時に、「わたしと一緒にいる」と言われました。 彼は、自分と一緒に罪人と共に死ぬ神の子を、目の前で見ることができました。 最後まで「父よお赦しください」ととりなしながら、神の前にも、私たちの前にも無力であり続けてくださった十字架の主を見ることができました。 楽園とは、この十字架につけられたままの主イエスとともにいるところです。



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